2008年12月13日土曜日

近江商人と伊勢商人- ネットのブログから

兵庫県明石で経営コンサルタント会社を経営されている中谷恭子社長のブログから引用させていただきました。

引用のサイトは、近江商人の特徴を大変コンパクトにかつ現在の経営の指針になるよう配慮してまとめてありました。ここでも小倉先生の本(『近江商人の経営管理』中央経済社)が引用されています。

もともと引用サイトを見つけたのは、トヨタ自動車は近江商人かというネット上での質問から検索してみつけたサイトです。トヨタ自動車と近江商人は中興の祖である石田退三氏が豊田家と遠縁に当る事や彦根東高校卒業であったことに縁があるようです。
近江商人は、名古屋の豊田織機や伊勢松阪の商人とも関係深く色々な面で共通するところがあります。

江戸時代の商人の人事制度については、「雇用の歴史」(牧英正法学博士著、弘文道)を見るとよく理解できますが、この本でも小倉先生の近江商人と伊勢商人(三井家)の江戸時代の雇用人事制度がまとめてあります。

以下ブログから転記します。

●「近江商人」とは

現在の滋賀県、琵琶湖周辺出身の商人で、その特徴は遠隔地行商から始まった、広域志向の商人であったことにあります。近江地方の商人でもその活動領域が近江地方だけに限定されたものは「地商い」といい、いわゆる「近江商人」ではありません。本拠は近江国に置くけれども、その活動領域は全国各地に及んでいる、これが近江商人のビジネススタイルです。
本店を中心に全国へ支店網を展開させるという、現在のビジネススタイルの原型といえるものといえますね。

ひと言:近江商人には、日野商人、八幡商人、湖東商人、五箇荘商人などそれぞれの地域により特産品も違い商いも違います。湖西商人の高島町からでた高島屋は呉服、蚊帳で有名な八幡、日野椀で有名な日野商人、繊維の五箇荘などです。
しかし、共通するとことは、天秤棒を担いで行商する近江商人の姿です。
もともと行商とは人の道を行くという意味で今の訪問販売ではありません。

● 近江商人の経営理念

近江商人とその他の商人を分ける最大の特徴は、その経営理念にあるといえます。
遠隔地交易という独特の商法により、その経営理念も独特のものがあったようです。
そして、この経営理念はそのまま現代にも適用できる優れたものです。

少しご紹介させていただきますと…。

1.「三方よし」

これは、「売手よし、買手よし、世間によし」のことを言い表したものです。
商売を行うからには儲からねば意味がありません、そのためにはお客さんにも喜んでもらわなければなりません。ですから「売手よし、買手よし」は当然のことといえますが、近江商人には、このうえに「世間よし」が加わって「三方よし」となります。

これは300年生き続けてきた理念で、近江商人特有のものとなっています。
自らの地盤を遠く離れた他国で商売を行う、近江商人においては、他国において尊重されるということが、自らの存在を正当づける根拠にもなりますから、「世間によし」という理念が生まれてきたといわれています。


ひと言:三方よしとは昭和になって滋賀大学の小倉教授がつけた呼び方です。天秤棒にこの三方好の発想がわかります。前に着替えなど身の回り品、後ろに商品見本を天秤棒に掛けて真ん中の商人がバランスを取ります。見方を変えて、前はお客、後ろは仕入れ、真ん中でバランスを取るのが商人。それぞれの利益のバランスが取れて初めて、自身が生かされます。

2.「利真於勤」

「利ハ勤ルニ於イテ真ナリ」これは、「三方よし」が近江商人の存在理由であるとするなら、
その任務は物資の流通にあると定めたもので、利益はその任務に懸命に努力したことに対する
おこぼれに過ぎないという理念を言い表したものです。
これは営利至上主義に陥ることを諫めたもので、経営の社会的責任というものを強調したものといえます。
西洋社会においては、キリスト教のプロテスタントの精神から、交換経済は人間に不可欠なものであるから、その機能を促進させる商人は、「神の意志」に即した行為を行うものである、
このように宗教的理念から商人の存在が正当づけられているのに対して、
近江商人においては、特定の宗教というより、天下の需要と供給を調整するのが商人として天職、商人に課せられた社会的責任であるとの考え方で、これを完全に達成するために勤めるのであり、利益が目的で勤めるのではなく、利益は商人が責任を果たしたことについて添えられる潤いというべきものとする、近江商人独特の職業観、職業倫理であったといえます。

江戸の中期以降になると京都の石田梅岩がでます。石田梅岩はまさに商道を説いた西洋のアダムスミスです。彼の出現により商道はいよいよ浪速を中心に開花していきます。
近江商人は、寧ろ倹約と実利を求める方向に行き、倫理は体で覚えたのでしょう。

3.「陰徳善事」

これは人知れずよい行いを行うことであり、自己顕示や見返りを期待せず、人のために尽くしなさいという意味です。人間の能力には限界があり、自分の努力だけではどうしようもないこともあり、そこから先は神仏などの「絶対者」に帰依するよりほかはないという、近江商人の宗教観を表したものといえます。

ひと言:近江の仏壇は有名です。どこも仏壇を大切にするところは栄えるようです。

● 「近江商人」の人事管理手法

これらの経営理念は、近江商人の人事管理手法にも大きな影響を与えています。
近江商人の人事制度に関する特徴としては、雇用制度として近江出身者からの雇用、そして、その人事管理手法としての「在所登り制度」があげられます。
近江商人の奉公人制度は一般の風習と同じく10代の「子飼い」からスタートし、「丁稚」、「手代」、「番頭」と昇進し、支配人や別家となることをゴールとする、いわゆる「丁稚制度」でした。

近江商人は全国各地に支店を設けていましたが、そこで働く店員は本家のある近江地方から、
主に派遣されていました。これは経営を任せるに相応しい人物に育成するためには、その人物に対する詳しい情報が入り、身元の確かな人物を採用する必要があったからといわれています。

そして、その人事管理手法としては「在所登り制度」というものが行われていました。

近江商人は、遠隔地に出店しそこで奉公を行うため、一般の商家のように親元へ帰り休養を許されるという、「薮入り」を毎年行うことはできません。
そこで奉公人に、一定の年数を経たのち帰省をさせる制度をつくり、これを「在所登り」といっていました。

これは、この登りの回数を重ねるにつれ職位や報酬が変わっていくという、いわば昇進制度でもありました。そして、この在所登りは奉公期間の区切りとして勤務評定をする重要な節目となっていました。ですから、このときに解雇される者も少なくなかったそうです。

つまり、近江商人におけるこの「在所登り制度」は、終身雇用を保証し年功を重んじるよりも、能力主義による人材選抜手法として機能していたといえます。近江商人においては、その経営理念から、先祖から受け継いだ資産を守り、それを増殖させることが後継者の役割であるという考え方が強く、そのため徹底した能力主義経営が貫かれていたようです。

これは主人に対しても適用されており、「押込隠居」といって、経営能力のない後継者は強制的に経営から退けられることもあったそうです。
また、商売を通じて得た利益金を、本家上納・内部留保・店員配当という3つに配分するという、「三ツ割制度」というものがあり、この店員配当(出精金)により支配人、奉公人に対しても事業経営へのインセンティブを与え、経営への一体感を高めていました。

支配人をはじめ奉公人にも利益配当がもたらされ、それにより彼らに刺激を与え、より大きな経営成果をあげるようなしくみになっていたのです。このことは近江商人の経営における奉公人の重要性がうかがえ、奉公人の良し悪しがその経営を大きく左右することを、深く理解していたといえるものです。

近江商人における人事管理手法は、このようなことから考えて、徹底した「能力主義」が採用されていたと判断して差し支えないかと思われます。では、近江商人においての人材の評価はどのようなものだったのでしょうか。


伊勢商人は、丁稚を「子供衆」(こどもし)といっていました。近江商人とほとんど同じ人事管理、資本管理をしていたようです。

● 近江商人の人材評価基準

一般的に商人に大切なこととしては、「才覚」と「算用」だといわれています。
市場の状況の変化に即応して、知恵を絞り、他の者に先んじて効果的な手を打ち、また、常に損益状況を考え、不慮の損失を蒙らないように計算する。商人とはこうあるべき、
普通はこのように考えられています。
しかし、近江商人が遺した家訓などからはこのような考え方は出てこないそうなのです。
それどころか、反対にこのような考え方を抑えるような主旨のものが多いそうです。
近江商人の販売の極意に「売って悔やむ」というものがあります。
これは、顧客の望むときに、売り惜しみせずに販売し、売った後で、これほどの人気商品を
こんなに安い値段で売るのはちょっと惜しいと後悔するような取引をせよ、というものです。

これは、売り手が損をしたと感じるということは、買い手は儲かるということであり、それが商売を長続きさせる秘訣であることを説いたものです。近江商人の商売の考え方は、短期的利益を追うのではなく、長期的視点で物事を考える。ここに独特の特徴があるように思われます。

この長期的視点で物事を考えることは、支出や消費に対する態度にも表れており、これは「始末と吝き(しわき)」の違いとして、よく言い表されています。
「吝き」とは、必要な支出や消費までも厭うという、いわゆるケチのことで、近江商家ではこれは良くないこととして伝えられているそうです。
これに対し「始末」とは、単なる倹約のことではなく、たとえ高くつくものであっても、
本当にいいものであれば長く使え、その効用も高くなり、結局は得をするというものです。
近江商家ではこの「始末」ということをとても重視していたようです。

つまり、この「始末」とは長期的経済合理性を説いたもので、ロングタームで物事を考える近江商人の考え方をよく表したものといえます。
そして、このことは近江商人の人事管理ついても、この長期的視点で物事を考えることが、よく表れているように思われます。

これは「陰徳善事」の理念も大きく影響していると思うのですが、近江商人においては人材を評価するときに、その人の商売の能力だけを評価することはありません。
ある特徴的な項目がその評価基準に加えられているのです。
この評価項目は、近江商人の流れをくむ現在のトヨタ自動車においても、重要なコンピテンシー項目とされているそうです。

そして、これは他の企業ではあまり見られない特徴となっているようなのです。近江商人に特徴的な人材の評価項目、とは一体何なのでしょうか
近江商人に特徴的な人材の評価項目、
それは…、人望や性格といった、「人間性」を重要な評価項目としていたのです。
近江商人では、この人間性に対する評価は、丁稚奉公を何年か続け、20歳くらいになった時点で行われていたそうで、このとき、冷酷な者を避け、性格が誠実で忍耐強い者を引き立てるように定められていたそうです。

人間性の方をより重視していたのです。

これは、長期的視点で考えた場合、その人の才覚よりもその人間性を評価した方が、結局は、高い業績をもたらすからであったと考えられます。近江商家では先にご紹介した経営理念に即して、人材の評価についても行われていたといえます。

また、現在のトヨタ自動車においても、「人望」という項目が人事評価項目に加えられています。これはトヨタがその人材の人間性を重視していることの現われといえます。
(この項目を評価基準に加えている企業はとても少ないそうです)
近江商人の経営においては、人材、特にその「人間性」をとても重要視していたのです。

伊勢商人はこれに才覚と言う言葉を残しています。三井家などは才覚で栄えた事で有名です。いずれにしろこの頃、暖簾と言うものができ、暖簾わけができました。長年働いた支配人には、のれんわけをします。しかし一代限りの暖簾です。資本と家と暖簾と屋号を渡します。
位によっては、暖簾だけをもらい一から商売もあります。人事評価と成果はいずれの時代も厳しいものです。

● さいごに
以上、近江商人について簡単に見てきたわけですが、「三方よし」をはじめとする、特徴的な経営理念、そして、それに厳格に対応して行われる人事管理・評価制度。
300年以上も続いてきた老舗企業である「近江商人」の商売の考え方には、本質的な「何か」が含まれているように思います。

そして、このような考え方は影が薄いものになってきているような気がしてなりません。
日本においても、能力主義的人事評価が主流になってきつつありますが、どうもそれが、いまの業績だけをみる、短期的視点のものであるように感じられます。

企業経営の目的は利益だけではありません、その企業を存続させることもとても大切なことです。そうであるならば、やはり長期的な視点をもって経営というものを考えていかねばならないでしょう。そう考えたとき、300年以上もの歴史を持つ「近江商人」の考え方を学ぶことは、決して、無駄なことではないように思うのです。

ひと言:最近、近江商人の家業も立ち行かなくなるケースも出てきています。小杉産業もその一つです。しかし、また再興する可能性もあり、こうした道を経て何代も続く大店ができます。



-参考文献-
小倉榮一郎 『近江商人の金言名句』 中央経済社 1990年
小倉榮一郎 『近江商人の経営管理』 中央経済社 1991年
末永國紀   『近江商人 現在を生き抜くビジネスの指針』 中公新書 2000年
上村雅洋   『近江商人の経営史』 清文堂 2000年
片山  修   『トヨタはいかにして「最強の社員」をつくったか』 祥伝社 2002年

2008年12月8日月曜日

古本と帳簿

高価な書籍はどうしても図書館で借りることになります。
伊勢商人、近江商人の本は最近発刊されていないようで、検索するといずれも古書の部類に入ってしまい1万円を超えるものもあります。

週末、近くの図書館に行ってきました。
帳簿(帳合の法)の歴史について調べてきました。

神戸大学会計学研究室が執筆している会計学辞典によると、現存する日本最古の帳簿については、富山家(とみやまけ)の足利帳が最古のものだと解説があります。

伊丹の鴻池、松阪の三井(江戸店もち京商人)も帳合の法を持っていましたが、中でも滋賀大学小倉教授による近江「中井家の帳合の法」は詳しい分析がなされているため、「中井家の帳合の法」が一般には有名です。人によってはこの帳簿が複式簿記で最古だと言っています。

富山家の帳簿「足利帳」については、日本大学の教授による労作「日本の帳合の法」の中に原文が掲載してあります。

富山家の「足利帳」の原本は、図書館所蔵の写真で見ることができましたが国立資料館では閲覧できないそうです。

2008年11月10日月曜日

近江商人について - 読書日記ブログから

近江商人の帳簿は有名な中井家の帳合の法がありますが、伊勢商人にも富山家の帳簿が最古といわれています。
国立史料館にあるとの事ですが、閲覧可能かどうか現在近くの図書館でも調べてもらっています。今回は、水谷さんのブログから「近江商人の帳簿」をうまくまとめていらっしゃったので引用させていただきました。
近江商人と伊勢商人はその発生、隣国でありともに天領であったなど共通するところが多くあります。中でも蒲生氏里が転府していらい日野商人が多く勢州へ移り住み近江商法が普及することになりました。
そうしたことから、江州と勢州両方に帳簿が残っているのは、合点がいくことです。

以下引用
http://mizutani.cocolog-nifty.com/book/2005/08/post_c7db.html

日野商人である中井家に残された膨大な大福帳が滋賀大学経済学部に収まりました。筆者が大福帳を調べてみるとすごい複式簿記の仕組みになっていることが判明します。

日本への複式簿記の導入は福沢諭吉が「帳合の法」の訳本を出してからと言われていましたが、200年も前に開発されていました。中井家の場合、本支店会計が導入された管理会計にもなっていました。
研究成果がまとめられ「江州中井家帳合の法」として出版されますが中井家だけでなく鴻池、小野組など他の近江商人でも同様の会計システムが出ていたことが明らかになります。

今でいう貸借対照表、損益計算書を揃え、決算報告まで揃っています。堂島の米相場では世界最初の先物取引所ができていたり、こんあ会計システムが出来上がっていたり日本って、とんでもなく進んでいたんですね。

■利足(利息)
中井家では資本金の10%が利足で、これが目標利益になりました。また、支配人にはここまで稼ぎなさいというプレッシャともなる数字です。10%を超えると「徳用」となり、徳用の10%は支配人に分配されます。自分が独立にもなる数字です。今で言う業績報償ですね。

反対に10%に達しない不足分は「損耗」となり、処理の仕方はいろいろとありましたが、中には今日で言う繰越欠損金のようなものもありました。

■帳合の法
売掛帳や過不足口など色々な帳面がありますが、近江商人は一つの取引を2つの帳面に記帳していました。また記帳を突き合わせることで、片方への記入忘れや誤記入を防いでいました。

毎日、仕事が終わると夕食前に全部の帳面をもってきて、一つの記帳に対して、相手となる帳簿にもきっちり記帳されているか確かめます。あっていれば検証印を押し、これで整合性をはかっていました。西洋から伝わった簿記は貸方、借方で処理をしますが原理はまったく同じです。

以上

小生から追加させていただくと、近江商人も伊勢商人も日本で初めて帳簿に資本の概念を導入した商人のようです。
資本とは利益を蓄積するいわゆる貸借対照表上の自己資本です。
江戸時代のほとんどの商人は、キャッシュフローの概念、あるいは簡単に言えば出納帳の概念しかなく、損益計算上の利益は理解できても利益が貸借対照表上のこる事が理解できなかったようです。

2008年10月26日日曜日

趣味の伊勢名物




三重ではお茶は伊勢茶として有名です。
ペットボトルに入ったお茶では川原製茶の伊勢茶ブランドが濃い味でおいしいお茶でした。
丹生は、勢和の隣村でもありまわりに何もありません。
川原製茶はちょうど丹生太子の門前を少し入ったところにあります。
販売者:株式会社川原製茶
住所 三重県多気郡多気町丹生1786
0598-49-3036
購入場所:松阪観光会館(松阪駅前)




この製品は、三重県製麺共同組合の開発商品で統一ブランド商品です。
伊勢うどんとは、湯でたうどん玉につゆをそのままかけて食べるうどんです。
御汁のないうどんとしては讃岐のかけうどんのつゆなしのような食べ方をします。
伊勢うどん パック2玉
販売者:有限会社 赤塚製麺
津市高野尾町4198
059-230-0015
購入場所:東京有楽町交通会館内 むらからまちから館


むらからまちから館の写真です。ここには全国商工連合会が運営しているため、全国の物産が並んでいます。伊勢もんは、ひじき、清酒、伊勢うどんがありました。少ない!!
03-5208-1521


勢和屋

伊勢商人と初鰹



江戸時代、初鰹は江戸町民にとり特別な意味を持つものでした。
初鰹は女房も質に入れても食らうものという川柳も出たほど、
初鰹を好んで食したそうです。

しかし、江戸に店を構える伊勢商家は、支配人から手代にいたるまで贅沢はご法度でしたから、初鰹が出ようとも一向に見向きもしません。

この説には、嶋田氏の著書「伊勢商人」で、もともと伊勢の人は紀州灘で取れるいきのいい鰹を食していたためわざわざ、小田原や房総からくる鰹には目もくれなかったと紹介されていますが、贅沢を禁じた当時の伊勢商人には鰹にお金をかけるというような事はしなかったのでしょう。

今でも日本橋には「鰹節」を扱う老舗があります。
1699年元禄12年創業のにんべん株式会社は、300年たった今でも鰹節を商っています。

嶋田氏の「伊勢商人」で多くの川柳が紹介されていますが、ここでは紹介できませんが、川柳にも出るほど、伊勢商人と鰹は縁の無いものだったそうです。
しかし、にんべんの鰹はいまだに健在です。機会があれば聞いてみたいものです。

以下HPから抜粋。
にんべんは、お陰様で今年(2008年)創業309年を迎えることができました。元禄12年(1699年)より鰹節一筋に、日本の味を伝え伝えることを使命と考え、安心・安全・健康をモットーに、味本位、品質第一に商品作りをして参りました。今後とも当社製品をご愛顧いただきますようお願い申し上げます。
http://www.ninben.co.jp/

伊勢商人は、相場ものには手を出さず木綿、乾物など国元から調達できる品物を江戸で商っていました。マーケットに流されず必要なものを市場に供給する力と才覚は近江の天秤棒商いと通じるところがあるようです。

2008年10月25日土曜日

三越創業際 335年

三越が今年で創業335年になります。
伊勢商人の代表として今なお広く知られています。
他の日本橋界隈の老舗には、ニンベンの鰹節などありますが、規模知名度GDP貢献度などなど圧倒的に三越と三井グループは日本を代表する企業となっています。
25 Oct 08
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伊勢丹は伊勢屋丹次郎氏が創業したがこれも伊勢屋。今回伊勢丹と合併するが、三越としての暖簾は残るが経営が変わると言うのはなんとも寂しい思いです。

三越335年記念のお菓子の缶を販売していたがひとつ買って記念にとっています。



この絵は広重の浮世絵ですがが当時の三越の繁盛振りを表しています。
当時三井高利は、江戸の富士山の見えるところで繁盛する三越を夢見ていたそうです。
それが、日本橋駿河町だったのでこの絵もそうです。当時の成功の証としてこの浮世絵を見ると改めて才覚と伊勢商人のすごさを感じるところがあります。

「伊勢商人」という本


25 Oct 08
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嶋田 謙次氏の「伊勢商人」を図書館で借りました。
千葉図書館にはなく、唯一三重県立図書館にあったため取り寄せることとなりました。
アマゾンやネット販売では中古本でさえ手に入らない貴重な本となっています。
著者は、1923年商家に生まれ、宇治山田商業、彦根高等商業卒業、神戸製鋼入社、1988年当時神鋼電機顧問でした。


1章 伊勢商人の起源
2章 伊勢国と伊勢商人の特質
3章 伊勢商人の発生と発展
4章 伊勢商人の経営と盛衰
5章 伊勢商人の足跡
6章 伊勢商人の系譜

大変よく研究された本で民間人(学者ではない)がかかれたものとは思えない本でした。
今まで色々読みましたが、伊勢商人の研究をする身にとっては、この本がバイブルのような気がします。内容では他の本同様一般的な伊勢商人の経営スタイルについての紹介が多い内容でしたが、深く研究されているところが随所にあり、是非手元においておきたい一冊です。筆者の出身学校を拝見すると、伊勢の学校を出て、近江の学校へ入学されたところなど、まさに商家の匂いがされる方のようです。
表紙は松坂木綿の紺と三越の浮世絵です。これも最高です。

1987年1月発行
1988年2月10日2版
発行者 伊勢商人研究会
製作者 ダイヤモンドプランニングサービス

2008年10月8日水曜日

半七捕り物帳

http://hansichi.hp.infoseek.co.jp/contents/han7ko04.html

半七捕り物帳について詳しく調べていらっしゃる方のHPです。
半分伊勢人だったという記述が面白かったので掲載しました。

AKINDO

2008年9月26日金曜日

三重県地域資料コーナー

地域資料コーナー

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三井高利とその商法

*   はじめに
* 1 三井高利と三井家
* 2 呉服店「越後屋」の商法
* 3 武藤文庫の三井家関係資料
* 4 当館所蔵参考文献(2004年6月現在)

書名 編著者 刊年 出版者
1 三井事業史 本編 第1巻     三井文庫編 1973 三井文庫
2 三井事業史 資料編 1      三井文庫編 1980 三井文庫
3 三井高利             中田易直 1975 吉川弘文館
4 三井元祖高利修業記        来多武六 1942 国文社
5 人づくり風土記 24        加藤秀俊編 1992 農山漁村文化協会
6 松阪学ことはじめ「宣長さん200年」 実行委員会編 2002 おうふう
7 伊勢商人             嶋田謙次 1988 伊勢商人研究会
8 伊勢商人の世界          後藤隆之 1990 三重県良書出版会
9 江戸商業と伊勢店         北島正元 1975 吉川弘文館
10 雇用の歴史            牧英正 1977 弘文堂
11 越後屋より三越          豊泉益三 1936 川瀬五節堂
12 三越写真帖            三正会幹事編 1941 (三越)
13 三越のあゆみ  「三越のあゆみ」編集委員会編 1954 三越本部総務部
14 松阪市史 第12巻         松阪市史編さん委員会編 1983 蒼人社

当館所蔵参考文献 (2004年6月現在)

書名 編著者 刊年 出版者
15 三重の文化 27      三重郷土会編 1961 三重郷土会
16 越後屋覚書        豊泉益三 1955 三邑社
17 越後屋覚帳        三井高陽 1940 同文館
18 松坂商人のすべて 
1 江戸進出期の様相     大喜多甫文 2005 伊勢の国・松坂十楽

伊勢商人の活躍-三井家

近江商人と伊勢商人は、経営スタイル、江戸店持ち、従業員は郷土出身者、複式簿記を扱う、相場者は扱わない、政治と関与しない、など共通する経営面が多くあります。
そうした中でも三井は、両替商として武家との関係も深く政治と関与する面もあったと思われます。戦後、三井家から三越と三井物産、三井銀行に分離した際も、政府の圧力があり両替商から銀行へ、繊維以外の商いは物産へ、繊維は三越へと分離していきました。
長谷川家、小津家などの商家は両替商としても発展していましたが、江戸から明治にかけての激動期に政治の波を読みきれなかったともいえるのではなかったかと思われます。

以下は、ネットからの転記ですが、三井の商法を簡潔にまとめていらっしゃいます。
ご参照ください。

伊勢商人の活躍と三井高利の商法
 今日は、江戸時代に活躍した「伊勢商人」についてお話しします。江戸の町でよく言われた言葉に、「江戸に多きもの 伊勢屋、稲荷に犬の糞」とか「伊勢乞食に近江泥棒」などというものがありました。これは、江戸の商人達が江戸で商売を繁盛させていた伊勢商人や近江商人のことを、ねたみ半分に言ったものらしいのですが、当時の江戸の町には「伊勢屋」を始め、「越後屋」「丹波屋」など、伊勢商人の店が軒を連ねていたようです。これらの店は「江戸店」といって、東京支店とでもいうようなもので、「江戸店」持ちということが松阪商人の特色でした。
 松阪の城主・蒲生氏郷は近江日野の出身で、近江商人を育てた人でもあり、この氏郷の商業保護政策や、広い木綿生産地があったこと、伊勢参宮の人達によって貨幣経済が発達し、情報も入り易かったことなどから、多くの商人がこの松阪から出ました。有名な人には、越後屋呉服店・三井両替店の基を築いた三井高利、丹波屋(長谷川)次郎兵衛、小津屋清左衛門などがいます。それから国学者本居宣長も、実はこういった伊勢商人の家の出身でした。彼らはそれぞれ、画期的なアイデアで商売を成功させましたが、ここでは三井高利の商いの様子を少しみてみましょう。
 三井高利は、松阪で木綿を商売していましたが、ついに決心して、江戸に「越後屋呉服店」を開きます。それまで呉服等を売る方法としては、「屋敷売」といって大名などの得意先を回って注文をとり、品物を届けて、支払いは‘つけ‘で、正月と盆に行われるのというのが一般的だったのですが、高利はそうした大名相手の商売をせず、町人・大衆向けに呉服を売り出したのです。町人達が行きかう店の前にずらりと反物を並べて広告を出し、現金掛値なしのバーゲンセールを催しました。また、地方の商人に越後屋の品物を行商させ、卸売業を兼ねたり、京都に三井両替店を開いたり、数々の独特な商売方法を考え出し、やがて高利は、江戸で一、二を争う大商人となりました。
 以上、伊勢商人の代表として三井高利を紹介しましたが、伊勢商人について、井原西鶴が『日本永代蔵』の中で「人の気を見て商の上手は此国の人也」と言っているように、伊勢商人の商売上手は当時の人々を驚かせたようです。
(平成元年1月 伊東由里子)


多気町五桂池の航空写真
三井呉服点を描いた広重の浮世絵(樋田清砂氏蔵)

参考文献

* 中田易直『三井高利』吉川弘文館 昭和34年
* 北島正元『江戸商業と伊勢店』吉川弘文館 昭和37年
* 作道洋太郎ほか『江戸期商人の革新的行動』有斐閣 昭和53年

2008年9月20日土曜日

三越創業335年、三重県尾鷲の鮨屋も江戸へ




三越は今年で創業335年になります。なぜこの時期に、創業祭なのかというと今年から三越伊勢丹ホールディングスになるからです。これからは、店もお買い場という伊勢丹流の経営が始まります。

三越創業祭も今週でいったん終わります。今回の創業際で三重県の「魚健」が銀座三越の特設コーナーに参加し、その帰りに千葉三越でも店を開いていました。
房総人としては、大変ありがたい事です。

魚健は、尾鷲の出身、鮨割烹店として約50年、先代は漁師か魚を扱う店だったと、若旦那がおっしゃったが、100年近く尾鷲で商っていたのでしょう。

名物は紀州名産「さんま姿すし」という事で、一ついただきました。洗練された味と美しい押し寿司です。紀州熊野灘は、さんま、鯖など多く獲れる漁場です。

伊勢出身の三越創業祭で見つけた伊勢商人でした。

屋号 :魚健 
三重県北牟婁郡紀北町海山区小山浦藤ノ木28の33
電話 0597-32-0139 
代表 民部 昌洋


2008年9月14日日曜日

近江、伊勢の商人に関する参考文献

伊勢、近江商人を調べていくと近江商人に関する書物が圧倒的に多い。
一部紹介します。

「近江商人中井家の研究」
著者 江頭 恒治
出版 雄山閣
中井家は、複式簿記を使っていたが、最も古い複式簿記は伊勢商人の帳簿が保管されている。

「江州中井家帳合の法」
著者 小倉 榮一郎
出版 ミネルバ書房
江戸時代後半期の商業資本の全容解明が可能

「近江商人の経営形態に関する考察」日野豪商中井源左衛門家の場合
31年12月彦根論叢題34号

「徳川時代近江商人の店員組織」
著者 原田 敏丸

近江、伊勢の商人魂
内橋克人概説 日本の商人3
出版 TBSブリタニカ

日本永大蔵ー「勤勉、倹約、正直、堅実」

井原西鶴の日本永大蔵に三井家の事が書かれています。

今の三井物産、三越の祖として知られる三井高利は、三井八郎兵衛高利という名でした。その祖父は、三井越後之守高安といい、近江の守護佐々木氏に仕える佐々木七将の内の一人として鯰江(なぎずえ)の城主。

その後、織田信長が佐々木氏を滅ぼし高安は伊勢松坂に住まわったとされ、高安の倅 高俊は永井左兵衛(丹波屋)の娘と結婚し町人として質店を商ったのが三井グループの始まりです。

三重多気郡丹生村出身の永井左兵衛の娘が商人の娘として三井家を切り盛りする一方、高俊は武家出身であったため商人として名を成すまでにはならず、嫁であり母がその子供の一人、高利に商道を教え、この高利が現在の三井家の創始者といわれています。

近江商人も伊勢商人も共通する格言があります。

「勤勉、倹約、正直、堅実」です。相場物にはいっさい手をださなかった伊勢商人にも通じる表現です。

勢和屋

暖簾わけと組織

近江商人には「暖簾わけ」があります。今回は、近江商人の「暖簾わけ」から商人の組織を見てみます。

もともと、近江地方では商いをするのではなく、資本家として経営者として出店の管理をするのが本家の主な仕事でした。

通常、近江から旅に出た商人は、江戸に店を構えます。江戸で成功すると、江戸店から更に分家をして東北、北海道地方へ出て行きます。

京都にも出店しますが、京都は繊維物の重要な仕入先として活躍する場合です。大坂は勿論商売としての情報、売れ筋など江戸同様重要な利益源です。

こうした本家から多くの支店出店を管理する体制として、丁稚、手代、支配人という役職があります。支配人を長年勤めたうえで、特に選ばれた元支配人の中でも本家から信頼が置かれている人を後見職になります。
この後見の役職を経て別家として暖簾分け「分家」になります。

この別家の暖簾わけと先ほどの江戸店からの暖簾わけは少し意味が違います。
江戸店からの東北地方への暖簾わけは、新たに本家から資本を追加してもらい分家します。
あくまでも支店的な存在です。

後見からの分家としての暖簾わけは、本家から退職金代わりの金銭が支払われ本家の資本からは分離されます。さらに本家の目付けとしての役割も期待されています。


伊勢商人の場合は、丁稚を、子供衆(こどもし)と呼んでいました。

近江、伊勢商人に共通する事は、丁稚から支配人まで近江、伊勢の出身者で固める事です。昔は、誰か一人流行病でもかかろうものなら、店の全員病気にかかるという事もあったそうです。
それというのも、店の出身者は同郷でもあり、店と住まいを同じくする場合があったからです。

しかし、江戸後期にもなると、優秀な専門家を江戸で別途採用する場合も出てきました。

こうした流れが、特に江戸時代末期から明治時代の始めに大店ではよくありました。

三井家は福沢諭吉と関係も深く、三井家は伊勢出身者でない慶應義塾生を専門職として江戸店に招いていたといわれています。(伊勢商人、三井の場合)

勢和屋

三現主義

近江商人の「天秤棒」には意味があります。

近江商人を研究する小倉榮一郎教授は、天秤棒を使った近江商法を三現主義という表現で説明しています。

三現主義とは、現地、現場、現物の3つの「現」を意味しています。

先ず、利潤源である物流コストの合理化を直接「現地」に足を運び「現場」で仕入売買をします。そのためにも「現物」を吟味する事が大切になります。
これが商人の三現主義です。

商人は、近江地方から子供のうちから父親と一緒に天秤棒をもって旅にでます。
その際、旅籠での宿泊人から色々な地方の話、また旅先での天候、政治など様々な情報を入手します。

天秤棒の両端には、片方に目的地までの簡単な着替えと帳簿をもち、もう一方には、商品見本を持っていくのが一般的です。
ただし、八幡の蚊帳などは持っていけないので、別送便として旅先に先に送っておくのが普通だそうです。日野の塗り物などは見本として持って行ったのでしょう。

こうして、「天秤棒商い」から得られる生情報は、近江に持ち帰り貴重な情報として商いに役立てていきます。

三現主義と天秤棒商いは近江商人の基本となっています。

勢和屋

2008年9月6日土曜日

伊勢松阪の旅 松阪城からの今





松阪駅を降りて歩いて15分ほどの松阪城へ行きました。

天守閣もなく城跡だけが残る地でした。写真は高台から見た今の松阪です。

8月の真夏日であったせいかとにかく人が少ない日でした。

勢和屋

伊勢松阪の旅 魚町



松阪駅から歩いて10分程度のところに魚町があります。
江戸当時、魚屋が多かった事から魚町という町名になったそうです。

この魚町には、今でも魚屋、乾物屋など古くからの魚をあきなう商家が残っています。
しかしそのほとんどは住人の老齢化によりほとんどの店が廃業しています。

商いを続けている町の人も「今では面影がなくなりました」と残念がっていました。

写真は、日野町から辻一つ離れた魚町の味噌屋さんです。主人に話を聞くと約600年ほど前から商いをやっているとのことです。

味噌を買おうと思ったのですが、ここは、卸屋さんでしたのでお味噌は買えませんでした。

江戸当時、このお店には丹生村のある現在の勢和地域や松阪近郊の村落から番頭さんや子供衆(こどもし)が商いの修行にきていたそうです。

明治頃には松阪で有名な野呂原丈さんの家系の方も番頭さんとしていらっしたそうです。

また、江戸当時は酒、味噌の両方を商う事ができたそうですが、明治の頃酒屋か味噌屋を選択する必要があったそうです。

当時味噌屋専業を選択したため今もお酒は商っていません。

江戸時代、この醸造の技術をもって、伊勢商人は千葉の銚子で醸造技術を栄えさせたと聞いています。

勢和屋

伊勢松阪の旅 日野町




蒲生氏里が近江の里から伊勢の国に転府されたとき、近江日野町から近江商人を松阪に招聘しました。現在知れれている伊勢商人は、日野地方から招聘された近江商人がもととなっているといえると思います。

松阪には、日野町という町がありますが、名前の起源は未だ調べていません。

その日野町にある旅館に創業200年の鯛屋旅館、創業100年の小西旅館があります。
いずれの旅館もお伊勢詣の際に栄えた街道沿いにあります。

勢和屋

伊勢松阪の旅 彦根秤


松阪の伊勢商人記念館の蔵の中に保存されている彦根秤の写真です。本当は館内写真禁止なのですが、断って写真を撮ってきました。

当時、近江の日野地方から蒲生氏里が転府さらたところが伊勢の国だったのですが、その後、居城を現在の松坂の地に構えました。松坂の名前の由来は秀吉の大坂の坂から一文字頂戴し、松坂(松阪)と氏里氏が命名しました。

蒲生氏は、近江日野地方から多くの日野商人も招致しました。それゆえ当時の伊勢商人の多くは近江日野商人であったと思われます。

伊勢商人の館にある彦根秤の展示物が貴重な証です。

赤坂の伊勢門



先日、東京港区赤坂サカス方面で見つけた伊勢看板の食べ物屋さんです。

名前は、伊勢門。伊勢の「物」という名前にかけた屋号かと思います。
松阪肉、伊勢海老、あわびの板看板が目を引きます。
行ってみたいものの、値段を考えると足が遠のきます。

勢和屋

2008年9月1日月曜日

三現主義

近江商人は、天秤棒商いといわれ、天秤棒を担いで諸国を旅して商いをしていました。

天秤棒の両端に小さい行李をさげていましたが、その中には、着替え、帳簿、墨など旅と商売に必要なもの、そして商いの商品見本が入っていました。

旅する近江商人の教えの中で、三現主義があります。

現地に赴き、現物を見て仕入れる。また、旅の途中で天候、市場の現状を確認するという三現主義です。

旅と近江商人の教えは現在の商社やベンチャービジネス家にとっても役立つ商道ではないでしょうか。

マーケティングだのトレーサビリティだの外来語での市場調査や品質確保をうたうより、近江商人の商道を実践すれば的確な商品戦略と信用力が築けると考えます。



勢和屋

2008年8月28日木曜日

伊勢商人富山家の帳簿とIR

今回は、IRとも関係の深い帳簿の歴史について書きます。

財務活動と会計情報を投資家に適正かつ的確につたえるのがIR(Investor Relations)活動といわれています。

帳簿は1449年イタリアのルカ・バチオの著した「スマン」(数学大全)に体系的にかかれたものが始めだと言われています。1590年に徳川家康が江戸入りしましたのでそれより140年前の事になります。


日本最古の現存帳簿は、国立史料館にある伊勢松坂射和出身の富山家が残した「足利帳」(1615年~1840年)です。富山家は江戸で栄えた伊勢商人の一人です。当時も商人の間では大福帳が使われていました。
大福帳は単式簿記で入出金の記録として使われていましたが、足利帳は正味身代(純資産)と利益について記載されており、資本と利益の概念が当時からあったことが分かります。

当時商人は、貸借対照表を算用目録帳、損益計算書を大黒帳といって使い分けていたそうです。一方、こうした帳簿は、伊勢商人の源流といわれる近江商人である中川家にも同様の複式簿記があります。

今のような複式簿記は、1800年中頃のイギリス、ドイツ産業革命の時代には完成していたそうですが、日本独自の複式簿記は江戸時代に伊勢と近江商人が既に使っていました。


その後、明治6年、福沢諭吉がイタリア式複式簿記を「帳合之法」という翻訳本で日本に紹介しましたが、この本は1971年著アメリカの簿記の教科書でした。これが今の帳簿となり、現代の決算報告書として企業が投資家に報告する会計情報の元となっています。


日本にも帳簿があったにもかかわらず何故、欧米の会計帳簿を使うようになったのでしょうか。 

諭吉はこういっています。「古来、日本では、学者は貧乏、学者は自らを高く、金持ちは無学なり。金持ちは、商売に学問は不要なり、学問は身代を潰すものなり」といって自らを賤しめていたそうです。

諭吉の功績は、それまで大福帳で商売をしていた商人に、伊勢と近江商人しか使っていなかった記帳方法と考え方を広く万民に伝えたことでした。

また、諭吉は、「金持ちも学者も天下の経済更に一面目を改め、全国の力を増すに至らんか」。といって国富を願ったそうです。

IRに話しを戻します。従来IR活動は会計情報の提供でした。最近、Jパワー、サッポロビールのもの言う株主の動向を見ると、時代背景によってIR活動も進化しなければならないようです。昨今では株主ガバナンスと企業価値向上をIRの課題とする企業が増えてきました。

諭吉の言葉を借りると、「従来、企業は、志は高く、投資家は経営に無知なり、投資家の言うなりは企業を潰すものなり」といえます。最近の外人投資家の動向と日本の考え方のどちらを選択すべきでしょうか。

温故知新の考え方も大切だと思います。

AKINDO

2008年8月26日火曜日

千葉の伊勢ラーメン



千葉中央区の千葉神社近くに伊勢屋の屋号をもつラーメン屋があります。

江戸時代に日本橋界隈で栄えた木綿問屋を中心に伊勢屋の屋号がおおくなりました。

当時の人は、「江戸に多きもの、伊勢屋、稲荷に犬の糞」と揶揄したそうです。

近代の調査によると未だに伊勢屋の屋号をもつ商店は東京で一番多いそうです。

もともと伊勢屋とか近江屋といった屋号は、江戸時代に盛んに使われました。当時、商人は出身地の名をとって店の屋号にしていました。

しかし、江戸も中期になると、伊勢商人や近江商人の大店が栄え、他の地方出身の商人がうらやむほどの規模になりました。その繁盛にあやかり伊勢出身でないにもかかわらず、伊勢屋の屋号をもつ店も増えたとの事だそうです。

今も栄える伊勢丹(伊勢屋)松坂屋などは伊勢(勢州出身)商人の屋号を未だに使っています。
町でよく見かけるのは、焼き鳥伊勢屋、団子屋伊勢屋、酒店の伊勢屋など小売店が多いようです。こういったお店はあやかり派かもしれません。

今度、千葉神社近くの伊勢屋ラーメンを食べて屋号の云われを聞いてこようと思います。

ところで、なぜここで千葉のラーメン屋の話かというと、もともと千葉は伊勢平氏である畠山氏が移り住み房総地方を治めたと言われています。

また黒潮にのり紀伊半島からも多くの漁民や廻船問屋が房総と伊勢を往来したため、勝浦、白浜などの地名も紀伊半島の地名と同じ名称が多くあります。

ゆっくり、千葉の伊勢屋を探してみます。 


勢和屋



写真は千葉神社の夏祭り(2008年8月千葉銀座あたり)




平20年10月24日
やっと新伊勢屋の伊勢ラーメンを食べに行きました。
店の人に確認したところ、昔はチェーン店で伊勢屋ラーメンといっていたそうです。
しかし、千葉で商標登録しようとしたところ既に千葉市で伊勢屋ラーメンが登録されており、屋号を取得できませんでした。そこでチェーン店の社長は新伊勢屋ラーメンとつけたそうです。
8店舗あったそのチェーン店も、皆チェーンから脱会したため、今は、千葉の新伊勢屋ラーメンがその当時の名前を譲り受けてそのまま使っているそうです。
チェーン店のオーナーが伊勢出身かどうかまでは、女将さんはご存知ありませんでした。
ちなみにラーメンはあっさり系で大変おいしい530円でした。
伊勢には「伊勢うどん」が有名ですが、伊勢ラーメンは有名ではなく、千葉で食せるということで味に少々期待したのですが。。。。まずは満足でした。

勢和屋

2008年8月20日水曜日

勢州丹生村をたずねて



先日、勢州の松阪から入り、多気郡の丹生村をたずねました。
松阪の地名の由来は、近江の蒲生氏里が勢州に移城した際、豊臣秀吉の居城である大坂の坂を一文字もらい松坂としたといわれています。
この松坂を海側ではなく、山側に進むと、松坂を流れる櫛田川の上流に多気郡丹生村(旧)がありすが、この丹生村は700年頃から水銀鉱脈があり水銀で栄えたところで商家も多くあり、未だに家々は屋号を使っています。
また、丹生村は、三井家(三井則兵衛高俊)に嫁としてとついだ殊法(商の祖)の実家(長井家)があることでも有名です。

この丹生村で、見つけたお煎餅をお土産に買って帰りましたが、食べた人からの反応はなかなかよく、素朴な味のする煎餅だと人気でした。

この煎餅は「しいたけ煎餅」という名前で、数百年前から紺屋(こんや)をやっていた十数代目の当主と奥様が手作りで作っているそうです。今の屋号はこんやが変化し「こうや」になったそうです。ここでも屋号で呼んでいました。
私も食べましたが、しいたけの味がなく、しかしほのかに香りが残るまた食べたくなる味でした。一度おためしあれ。



写真は、松阪で宿泊した旅館です。鯛屋旅館といって創業200年ほどの旅館です。ここに一泊してきましたが、東京日野市から嫁がれた若女将と旅館の古き風情があってよかったです。お伊勢参りの宿泊先として栄えた旅館だということでした。松阪牛鍋が夕食でついて1万円。

勢和屋

伊勢商人のふるさと



畠山氏の出城があった笹山城からの見た勢和村(旧)、この村の隣村が三井家、水銀で有名な丹生村です。


丹生のお太子さんからほど近い水銀の坑道へ続く山道


伊勢商人は射和、松阪、津、宇治山田など勢州に広がる商人を言います。
大きく分けると、700年代から始まる水銀とおしろいを主産業とする商業と1600年代から始まる木綿卸、港を利用した廻船卸商業に分かれます。
1600年から始まる伊勢(松坂市)の商業は、近江の蒲生氏郷が今の滋賀県日野村からつれてきた日野商人が作り上げました。今でも、あちらのお宅は勢州もん、こちらは江州もんといって、地元では伊勢と近江と区別する人もいます。

この丹生村が伊勢の国の商人発祥の地ではないかと私は考えますが、今はひっそりとした熊野と伊勢街道沿いの宿場町の面影を残すのみです。丹生村は、今の多気郡多気町(以前は勢和村、勢和村の合併前は五ヶ谷村と丹生村)にあります。写真は今の丹生村(旧)です。


明治22年五ヶ谷村と丹生村となる。昭和30年両村が合併し勢和村となる。平成18年勢和村と多気町が合併し多気町となる。今は、旧勢和村には勢和村振興事務所(旧村役場)があるのみ。写真は当時の五ヶ谷村の消防車です。

丹生村の長井家の嫁が商家としての三井家を育てたといわれているが、この門は三井家の発祥の地といわれ、松阪の魚町にあります。


丹生村の町屋。白い表札は、屋号「柏屋(とうふ)」と書いてあります。家々の前には、宿屋、こんにゃく、ひきゃくなど屋号が必ずかけてあります。お煎餅やさんの家には紺屋(こうや)とありました。昔は紺染め屋さんだったそうです。

勢和屋