2008年8月28日木曜日

伊勢商人富山家の帳簿とIR

今回は、IRとも関係の深い帳簿の歴史について書きます。

財務活動と会計情報を投資家に適正かつ的確につたえるのがIR(Investor Relations)活動といわれています。

帳簿は1449年イタリアのルカ・バチオの著した「スマン」(数学大全)に体系的にかかれたものが始めだと言われています。1590年に徳川家康が江戸入りしましたのでそれより140年前の事になります。


日本最古の現存帳簿は、国立史料館にある伊勢松坂射和出身の富山家が残した「足利帳」(1615年~1840年)です。富山家は江戸で栄えた伊勢商人の一人です。当時も商人の間では大福帳が使われていました。
大福帳は単式簿記で入出金の記録として使われていましたが、足利帳は正味身代(純資産)と利益について記載されており、資本と利益の概念が当時からあったことが分かります。

当時商人は、貸借対照表を算用目録帳、損益計算書を大黒帳といって使い分けていたそうです。一方、こうした帳簿は、伊勢商人の源流といわれる近江商人である中川家にも同様の複式簿記があります。

今のような複式簿記は、1800年中頃のイギリス、ドイツ産業革命の時代には完成していたそうですが、日本独自の複式簿記は江戸時代に伊勢と近江商人が既に使っていました。


その後、明治6年、福沢諭吉がイタリア式複式簿記を「帳合之法」という翻訳本で日本に紹介しましたが、この本は1971年著アメリカの簿記の教科書でした。これが今の帳簿となり、現代の決算報告書として企業が投資家に報告する会計情報の元となっています。


日本にも帳簿があったにもかかわらず何故、欧米の会計帳簿を使うようになったのでしょうか。 

諭吉はこういっています。「古来、日本では、学者は貧乏、学者は自らを高く、金持ちは無学なり。金持ちは、商売に学問は不要なり、学問は身代を潰すものなり」といって自らを賤しめていたそうです。

諭吉の功績は、それまで大福帳で商売をしていた商人に、伊勢と近江商人しか使っていなかった記帳方法と考え方を広く万民に伝えたことでした。

また、諭吉は、「金持ちも学者も天下の経済更に一面目を改め、全国の力を増すに至らんか」。といって国富を願ったそうです。

IRに話しを戻します。従来IR活動は会計情報の提供でした。最近、Jパワー、サッポロビールのもの言う株主の動向を見ると、時代背景によってIR活動も進化しなければならないようです。昨今では株主ガバナンスと企業価値向上をIRの課題とする企業が増えてきました。

諭吉の言葉を借りると、「従来、企業は、志は高く、投資家は経営に無知なり、投資家の言うなりは企業を潰すものなり」といえます。最近の外人投資家の動向と日本の考え方のどちらを選択すべきでしょうか。

温故知新の考え方も大切だと思います。

AKINDO

2008年8月26日火曜日

千葉の伊勢ラーメン



千葉中央区の千葉神社近くに伊勢屋の屋号をもつラーメン屋があります。

江戸時代に日本橋界隈で栄えた木綿問屋を中心に伊勢屋の屋号がおおくなりました。

当時の人は、「江戸に多きもの、伊勢屋、稲荷に犬の糞」と揶揄したそうです。

近代の調査によると未だに伊勢屋の屋号をもつ商店は東京で一番多いそうです。

もともと伊勢屋とか近江屋といった屋号は、江戸時代に盛んに使われました。当時、商人は出身地の名をとって店の屋号にしていました。

しかし、江戸も中期になると、伊勢商人や近江商人の大店が栄え、他の地方出身の商人がうらやむほどの規模になりました。その繁盛にあやかり伊勢出身でないにもかかわらず、伊勢屋の屋号をもつ店も増えたとの事だそうです。

今も栄える伊勢丹(伊勢屋)松坂屋などは伊勢(勢州出身)商人の屋号を未だに使っています。
町でよく見かけるのは、焼き鳥伊勢屋、団子屋伊勢屋、酒店の伊勢屋など小売店が多いようです。こういったお店はあやかり派かもしれません。

今度、千葉神社近くの伊勢屋ラーメンを食べて屋号の云われを聞いてこようと思います。

ところで、なぜここで千葉のラーメン屋の話かというと、もともと千葉は伊勢平氏である畠山氏が移り住み房総地方を治めたと言われています。

また黒潮にのり紀伊半島からも多くの漁民や廻船問屋が房総と伊勢を往来したため、勝浦、白浜などの地名も紀伊半島の地名と同じ名称が多くあります。

ゆっくり、千葉の伊勢屋を探してみます。 


勢和屋



写真は千葉神社の夏祭り(2008年8月千葉銀座あたり)




平20年10月24日
やっと新伊勢屋の伊勢ラーメンを食べに行きました。
店の人に確認したところ、昔はチェーン店で伊勢屋ラーメンといっていたそうです。
しかし、千葉で商標登録しようとしたところ既に千葉市で伊勢屋ラーメンが登録されており、屋号を取得できませんでした。そこでチェーン店の社長は新伊勢屋ラーメンとつけたそうです。
8店舗あったそのチェーン店も、皆チェーンから脱会したため、今は、千葉の新伊勢屋ラーメンがその当時の名前を譲り受けてそのまま使っているそうです。
チェーン店のオーナーが伊勢出身かどうかまでは、女将さんはご存知ありませんでした。
ちなみにラーメンはあっさり系で大変おいしい530円でした。
伊勢には「伊勢うどん」が有名ですが、伊勢ラーメンは有名ではなく、千葉で食せるということで味に少々期待したのですが。。。。まずは満足でした。

勢和屋

2008年8月20日水曜日

勢州丹生村をたずねて



先日、勢州の松阪から入り、多気郡の丹生村をたずねました。
松阪の地名の由来は、近江の蒲生氏里が勢州に移城した際、豊臣秀吉の居城である大坂の坂を一文字もらい松坂としたといわれています。
この松坂を海側ではなく、山側に進むと、松坂を流れる櫛田川の上流に多気郡丹生村(旧)がありすが、この丹生村は700年頃から水銀鉱脈があり水銀で栄えたところで商家も多くあり、未だに家々は屋号を使っています。
また、丹生村は、三井家(三井則兵衛高俊)に嫁としてとついだ殊法(商の祖)の実家(長井家)があることでも有名です。

この丹生村で、見つけたお煎餅をお土産に買って帰りましたが、食べた人からの反応はなかなかよく、素朴な味のする煎餅だと人気でした。

この煎餅は「しいたけ煎餅」という名前で、数百年前から紺屋(こんや)をやっていた十数代目の当主と奥様が手作りで作っているそうです。今の屋号はこんやが変化し「こうや」になったそうです。ここでも屋号で呼んでいました。
私も食べましたが、しいたけの味がなく、しかしほのかに香りが残るまた食べたくなる味でした。一度おためしあれ。



写真は、松阪で宿泊した旅館です。鯛屋旅館といって創業200年ほどの旅館です。ここに一泊してきましたが、東京日野市から嫁がれた若女将と旅館の古き風情があってよかったです。お伊勢参りの宿泊先として栄えた旅館だということでした。松阪牛鍋が夕食でついて1万円。

勢和屋

伊勢商人のふるさと



畠山氏の出城があった笹山城からの見た勢和村(旧)、この村の隣村が三井家、水銀で有名な丹生村です。


丹生のお太子さんからほど近い水銀の坑道へ続く山道


伊勢商人は射和、松阪、津、宇治山田など勢州に広がる商人を言います。
大きく分けると、700年代から始まる水銀とおしろいを主産業とする商業と1600年代から始まる木綿卸、港を利用した廻船卸商業に分かれます。
1600年から始まる伊勢(松坂市)の商業は、近江の蒲生氏郷が今の滋賀県日野村からつれてきた日野商人が作り上げました。今でも、あちらのお宅は勢州もん、こちらは江州もんといって、地元では伊勢と近江と区別する人もいます。

この丹生村が伊勢の国の商人発祥の地ではないかと私は考えますが、今はひっそりとした熊野と伊勢街道沿いの宿場町の面影を残すのみです。丹生村は、今の多気郡多気町(以前は勢和村、勢和村の合併前は五ヶ谷村と丹生村)にあります。写真は今の丹生村(旧)です。


明治22年五ヶ谷村と丹生村となる。昭和30年両村が合併し勢和村となる。平成18年勢和村と多気町が合併し多気町となる。今は、旧勢和村には勢和村振興事務所(旧村役場)があるのみ。写真は当時の五ヶ谷村の消防車です。

丹生村の長井家の嫁が商家としての三井家を育てたといわれているが、この門は三井家の発祥の地といわれ、松阪の魚町にあります。


丹生村の町屋。白い表札は、屋号「柏屋(とうふ)」と書いてあります。家々の前には、宿屋、こんにゃく、ひきゃくなど屋号が必ずかけてあります。お煎餅やさんの家には紺屋(こうや)とありました。昔は紺染め屋さんだったそうです。

勢和屋