三重県の高校生レストラン「まごの店」を舞台にしたテレビ番組がおもしろい。
三重県を舞台にした番組は少ないが高校生レストラン(日本テレビ土曜夜9時から)の番組は面白い。相可は、射和、丹生の中間に位置して櫛田川をはさんで射和村と接する。射和には射和文庫や食品商社の国分の本宅などがあり、丹生、射和、相可の3村が伊勢商人発祥の地としても300年以上の歴史を持つ土地柄です。
また、相可は、鮎の甘露煮で有名な1865年創業の「うおすけ」本店があります。お店は櫛田川沿いにあり、風情もあっていい感じのお店でした。http://www.uosuke.co.jp/history/index.html
伊勢商人の瓦版
商人の勉強をしています。
2011年6月11日土曜日
2009年5月17日日曜日
暖簾の価値研究
昭和10年1月8日発行 著者 大野 勇 発行所 中文館書店
市場統制暖簾の価値研究
前京都市場長 大野勇
市場の統制取引の規制のためにする市場革新の根本基調は、市場暖簾の認識とその評価に在る。(1頁)
従来の市場の暖簾は、ほとんど学者の調査研究の対象外に置かれた観があり、その種の著書にも例示をはじめ所説がほとんど皆無に近いという有様であり、たまたま散見する所説にしても、その多くはほかの業界の事例もしくは欧米の慣行に依る所説である。真にわが業界の事実に即して論結されたものは見出すことができない。(2頁)
東西市は唐から伝えた築都の上の市場配置の定型である。平安京の東西市もこれより従来の方によったもので、左京にあるを東市といい、その地域は現在の西本願寺境内から西南に渡るいったの地である。(2頁)
東西市各別に市司を置き、市司は、財貨の交易、器物の真偽、度量の正否、売買の枯価などを管理し売買取引の非違を禁察することなどを掌理した。その長官を市正(正6位)という。地方には国司の支配に属する市司が置かれてあった。(2頁)
わが国の市場は大化の改新以前にも存在したから市場に干渉してその統制を計ったことは察せされる。文武天皇の大宝年間に大宝律令が選定されし情報がその中に含まれることになって初めてわが国も市場は法的存在となった。
飛鳥時代から平安朝の初期のころまで市場法となったものは闇市令であり、醍醐天皇の延喜5年の延喜式が選定せられ、そのうちにおさめられた東西市司式にいたって市場法は体制したが、大宝律令制定より延喜式の選定まで262年を経ている。(西村博士著 日本古代経済市場篇37頁)
(3頁)
座制と株制
「座」
市場統制としての東西市の制度も、中央政権の拡張と収支し、源平抗争の時代にはまったく荒廃し鎌倉足利時代にはすでにその形跡を留めざるにいたりたるを持って業者は取り扱いの品目毎に組合を作り、領主、寺院、神社などの権勢に追り、かぜいを納めて業務の特許を得、これを座と呼んだ。座に属する商人を座衆または座人といい、座衆の取り扱う商品は他商人をして販売せしめず。座衆は各々販路を限って営業したものであった。
「株」
徳川時代の問屋も業毎に組合を作り、申合せ条目を定め、一定の冥加金を上納して、特別の保護を受け、業者の数を制限し且つこれを世襲したもので、その種特殊の専業を一般に「株」と称した。すなわち株の制度によりて業者の員数が制限され、市場の開設営業が免許されて、市場の統制と取引の規制がある程度おこなわられたものであった。
10頁
めいわ8年11月27日 和泉屋五郎兵衛他三十八名
当時の問屋組合の実情および問屋株のいかなるものかを知る材料である。
この願いに対し奉行所では冥加金増額の要ありとのことにて、さらに4回の願いを重ね結局40枚の株札に対し、年初は銀40枚翌年より銀20枚上納という鼓tによって許可された。
当時株札のを受けることは手続きも面倒で経費も係り容易なことではなかった。1株の価値も五、六十両から
高きは三四千両に登り売買譲渡質入書入の自由で、問屋権仲買権として貴重な暖簾であった。
11頁
天保の末頃諸物価の高騰により当時老中水野忠邦は、問屋業者の独占横暴にあると断じ、冥加金お上納をやめ、組合仲間を解き、株札を廃し、全国商人の自由営業を認め、素人直売買を許した。これにより問屋仲間小売のくべつがなく自由に産地に入試と直接取引が行われるようになった。
しかし諸物価はおさまらず、商取引の規則が廃滅し商人の倒産があいつぐにいたった。弘化二年老中水野に代わり阿部正弘老中首座に進むや、諸株廃止後の実情を考察し、問屋組合の最高をなすにいたった。これが嘉永四年の問屋組合復興令である。
復興令では、ある程度の復興に留めている。仲買人の無制限、冥加金の免除の保留などである。無制限の自由、絶対的開放は、統制の余弊以上の弊害を伴うものであることを教えている。いずれにせよ徳川時代の株制にひびが入ったままで明治維新への持ち越されていった。
12頁
明治維新になった徳川時代の株制が廃止されてからは、市場に対する統制作用はまったく解除され、自由放任の余勢は堤を決した奔流の勢いで進んだ。文書に「仲買組合禁止の布達」がある。明治5年大阪であった。
「何等の規制無き無統制の自由」が、市場取引の上に少なからぬ弊害を生み出すことになり、自由放任に任せられた市場は、不正競争と市場業者の濫立となった。こうしたことから明治三四十年のころには府県取り締まり規則の稀少と不備とも手伝って、余弊の絶頂に達していた。その後、「中央卸売市場法」の制定となった。
市場統制と暖簾
30頁
佐野博士
「合同合併などのために必要とする問屋老舗の評価は大変な仕事でありかなっらずや混乱に陥ろう」「問屋の老舗は本来無価値のものであるが必ずや事情に余儀なくされて高値に評価する結果荷主小売両者の手数料率引き上げとなるであろう」(生産調査会議事録)
説の当否を別にして市場の統制と革新とに暖簾の問題が随起することは当時から予期されていた。
38頁
暖簾の意義と評価
39頁
暖簾の意義
営業権の俗称で老舗、営業得意先、営業秘密、家などと同じく、無形固定資産のもっとも重要なものである。
商店、会社が多年の努力に因って成功し、同様の事業における普通の収益率に依る以上の利益を上げ得るとき、其の超過利益を生ずる原因を意味するものであり、其の超過利益を評価記帳するとき、資産として暖簾が成立する。
1)多年の努力により築かれた評価信用
2)経営首脳者または従業員の人格または手腕の優秀
3)店舗所在場所の地理的憂愁
4)商業または商標に依る其の名前の広く知られること
5)仕入先其の他営業関係の諸方面に有する特別関係
6)販売または販売の独占
のれん評価が計上されるのは以下のばあいに限る
1)のれんが他人に譲渡される場合
2)高い社と合併する場合
3)其の組織を変更する場合(個人から株式会社へ)
4)合名会社、合資会社に置いて社員の加入または脱退のある場合
5)
市場統制暖簾の価値研究
前京都市場長 大野勇
市場の統制取引の規制のためにする市場革新の根本基調は、市場暖簾の認識とその評価に在る。(1頁)
従来の市場の暖簾は、ほとんど学者の調査研究の対象外に置かれた観があり、その種の著書にも例示をはじめ所説がほとんど皆無に近いという有様であり、たまたま散見する所説にしても、その多くはほかの業界の事例もしくは欧米の慣行に依る所説である。真にわが業界の事実に即して論結されたものは見出すことができない。(2頁)
東西市は唐から伝えた築都の上の市場配置の定型である。平安京の東西市もこれより従来の方によったもので、左京にあるを東市といい、その地域は現在の西本願寺境内から西南に渡るいったの地である。(2頁)
東西市各別に市司を置き、市司は、財貨の交易、器物の真偽、度量の正否、売買の枯価などを管理し売買取引の非違を禁察することなどを掌理した。その長官を市正(正6位)という。地方には国司の支配に属する市司が置かれてあった。(2頁)
わが国の市場は大化の改新以前にも存在したから市場に干渉してその統制を計ったことは察せされる。文武天皇の大宝年間に大宝律令が選定されし情報がその中に含まれることになって初めてわが国も市場は法的存在となった。
飛鳥時代から平安朝の初期のころまで市場法となったものは闇市令であり、醍醐天皇の延喜5年の延喜式が選定せられ、そのうちにおさめられた東西市司式にいたって市場法は体制したが、大宝律令制定より延喜式の選定まで262年を経ている。(西村博士著 日本古代経済市場篇37頁)
(3頁)
座制と株制
「座」
市場統制としての東西市の制度も、中央政権の拡張と収支し、源平抗争の時代にはまったく荒廃し鎌倉足利時代にはすでにその形跡を留めざるにいたりたるを持って業者は取り扱いの品目毎に組合を作り、領主、寺院、神社などの権勢に追り、かぜいを納めて業務の特許を得、これを座と呼んだ。座に属する商人を座衆または座人といい、座衆の取り扱う商品は他商人をして販売せしめず。座衆は各々販路を限って営業したものであった。
「株」
徳川時代の問屋も業毎に組合を作り、申合せ条目を定め、一定の冥加金を上納して、特別の保護を受け、業者の数を制限し且つこれを世襲したもので、その種特殊の専業を一般に「株」と称した。すなわち株の制度によりて業者の員数が制限され、市場の開設営業が免許されて、市場の統制と取引の規制がある程度おこなわられたものであった。
10頁
めいわ8年11月27日 和泉屋五郎兵衛他三十八名
当時の問屋組合の実情および問屋株のいかなるものかを知る材料である。
この願いに対し奉行所では冥加金増額の要ありとのことにて、さらに4回の願いを重ね結局40枚の株札に対し、年初は銀40枚翌年より銀20枚上納という鼓tによって許可された。
当時株札のを受けることは手続きも面倒で経費も係り容易なことではなかった。1株の価値も五、六十両から
高きは三四千両に登り売買譲渡質入書入の自由で、問屋権仲買権として貴重な暖簾であった。
11頁
天保の末頃諸物価の高騰により当時老中水野忠邦は、問屋業者の独占横暴にあると断じ、冥加金お上納をやめ、組合仲間を解き、株札を廃し、全国商人の自由営業を認め、素人直売買を許した。これにより問屋仲間小売のくべつがなく自由に産地に入試と直接取引が行われるようになった。
しかし諸物価はおさまらず、商取引の規則が廃滅し商人の倒産があいつぐにいたった。弘化二年老中水野に代わり阿部正弘老中首座に進むや、諸株廃止後の実情を考察し、問屋組合の最高をなすにいたった。これが嘉永四年の問屋組合復興令である。
復興令では、ある程度の復興に留めている。仲買人の無制限、冥加金の免除の保留などである。無制限の自由、絶対的開放は、統制の余弊以上の弊害を伴うものであることを教えている。いずれにせよ徳川時代の株制にひびが入ったままで明治維新への持ち越されていった。
12頁
明治維新になった徳川時代の株制が廃止されてからは、市場に対する統制作用はまったく解除され、自由放任の余勢は堤を決した奔流の勢いで進んだ。文書に「仲買組合禁止の布達」がある。明治5年大阪であった。
「何等の規制無き無統制の自由」が、市場取引の上に少なからぬ弊害を生み出すことになり、自由放任に任せられた市場は、不正競争と市場業者の濫立となった。こうしたことから明治三四十年のころには府県取り締まり規則の稀少と不備とも手伝って、余弊の絶頂に達していた。その後、「中央卸売市場法」の制定となった。
市場統制と暖簾
30頁
佐野博士
「合同合併などのために必要とする問屋老舗の評価は大変な仕事でありかなっらずや混乱に陥ろう」「問屋の老舗は本来無価値のものであるが必ずや事情に余儀なくされて高値に評価する結果荷主小売両者の手数料率引き上げとなるであろう」(生産調査会議事録)
説の当否を別にして市場の統制と革新とに暖簾の問題が随起することは当時から予期されていた。
38頁
暖簾の意義と評価
39頁
暖簾の意義
営業権の俗称で老舗、営業得意先、営業秘密、家などと同じく、無形固定資産のもっとも重要なものである。
商店、会社が多年の努力に因って成功し、同様の事業における普通の収益率に依る以上の利益を上げ得るとき、其の超過利益を生ずる原因を意味するものであり、其の超過利益を評価記帳するとき、資産として暖簾が成立する。
1)多年の努力により築かれた評価信用
2)経営首脳者または従業員の人格または手腕の優秀
3)店舗所在場所の地理的憂愁
4)商業または商標に依る其の名前の広く知られること
5)仕入先其の他営業関係の諸方面に有する特別関係
6)販売または販売の独占
のれん評価が計上されるのは以下のばあいに限る
1)のれんが他人に譲渡される場合
2)高い社と合併する場合
3)其の組織を変更する場合(個人から株式会社へ)
4)合名会社、合資会社に置いて社員の加入または脱退のある場合
5)
2009年5月3日日曜日
てんびんの詩 2
てんびんの詩の2巻、3巻を見ました。
全3巻のビデオを都合2回も見てしまいましたが、何度観ても感動と涙がとまりません。
もう一度みるなら、2巻をもう一度見たいと思います。
ゴールデンウイークですが、ビデオを観ていたらまた商人の本が気になり、図書館でまた本を借りてきました。
近世庶民家訓の研究、暖簾考、そして山﨑豊子の暖簾です。
伊勢商人を調べると色々興味が出てます。
山﨑豊子さんの1957年に出版された「暖簾」は、大坂の昆布商人の話です。明治のころ、淡路島出身の吾平さんが浪花屋さんに丁稚奉公し、暖簾分けしてもらい、その後息子が戦後一から暖簾を守る話です。
てんびんの詩と同じような時代背景で商人の道を説いています。ただ、てんびんの詩のように人のお役に立つのが商人やという教えより、丁稚として昆布を商うようになった吾平(初代)が暖簾分けしてもらった暖簾を戦後、その子供が再興するというという筋書きです。
「暖簾考」も大変よく暖簾について研究された本でした。この本の中に「暖簾」での下りが紹介されていましたので読みました。暖簾の価値は西欧でいう暖簾とは比べ物にならないぐらい大切なものだと理解できます。
暖簾とは信用と市場シェアであると暖簾考では行っていますが、江戸時代の暖簾は仲間株という制度が、独占権を与えていたわけですので、確かに信用と市場シェアがあり暖簾といえます。しかし、今のように信用と市場シェアがなくてもブランドという名前で商売ができる世の中の暖簾はどういった価値を言うのか。考えてみたいと思います。
全3巻のビデオを都合2回も見てしまいましたが、何度観ても感動と涙がとまりません。
もう一度みるなら、2巻をもう一度見たいと思います。
ゴールデンウイークですが、ビデオを観ていたらまた商人の本が気になり、図書館でまた本を借りてきました。
近世庶民家訓の研究、暖簾考、そして山﨑豊子の暖簾です。
伊勢商人を調べると色々興味が出てます。
山﨑豊子さんの1957年に出版された「暖簾」は、大坂の昆布商人の話です。明治のころ、淡路島出身の吾平さんが浪花屋さんに丁稚奉公し、暖簾分けしてもらい、その後息子が戦後一から暖簾を守る話です。
てんびんの詩と同じような時代背景で商人の道を説いています。ただ、てんびんの詩のように人のお役に立つのが商人やという教えより、丁稚として昆布を商うようになった吾平(初代)が暖簾分けしてもらった暖簾を戦後、その子供が再興するというという筋書きです。
「暖簾考」も大変よく暖簾について研究された本でした。この本の中に「暖簾」での下りが紹介されていましたので読みました。暖簾の価値は西欧でいう暖簾とは比べ物にならないぐらい大切なものだと理解できます。
暖簾とは信用と市場シェアであると暖簾考では行っていますが、江戸時代の暖簾は仲間株という制度が、独占権を与えていたわけですので、確かに信用と市場シェアがあり暖簾といえます。しかし、今のように信用と市場シェアがなくてもブランドという名前で商売ができる世の中の暖簾はどういった価値を言うのか。考えてみたいと思います。
2009年4月29日水曜日
てんびんの詩
近江商人は伊勢商人の母屋と言えるのではないんでしょうか。
伊勢商人はいわば新屋と言う事もできます。
三井家当主はもと近江から伊勢にきました。
近江には朝鮮街道があります、また、日野には伊勢街道があります。伊勢では津には朝鮮の祭りでもある「唐人さん祭り」があります。
いずれも、朝鮮の村祭りからきています。
近江には、伊勢神宮に縁が深いお多賀神社、「ひゃくさいじ」百済寺など朝鮮を基点として近江と伊勢はつながっているようです。
さて、会社に「てんびんの詩」というビデオがありましたので借りて観てみました。
このビデオは竹本幸之祐さんの『てんびんの詩』をもとに、イエローハットの創業者が映画化したものです。
場所は近江の国、五個荘、近江商人の発祥の地、大正時代の話です。主人公は、大店の長男として生まれ、商家の嫡男として家を継ぐことになります。
中学を卒業した商家の長男は、卒業翌日から天秤棒を担いで鍋蓋を行商にでます。商品は鍋ではなく鍋蓋です。数ヶ月親戚や知人をたずねますが一向に売れません。親戚からは商いの道を諭されますが、ぼっちゃんとして育った15歳ですから、なかなか商いについて理解できません。そして、しまいには悪たれをついたり、何度も挫折しそうになるのですが、サボったり精を出したりと工夫して行商します。しかし売れません。
ある日、少年は、川のふちに置いてあった鍋と鍋蓋を見て、捨てれば戻ってきた人が買ってくれるのでは?と思い、捨てようとしましたが、いざ捨てる段になると苦労して売った人のことを思い起こされ鍋蓋がいとおしくなってきました。いつの間にか少年は無心に鍋蓋と鍋を洗い出しました。そこへ洗い途中で座をはずしていた奥さんが戻ってきたので両方がビックリです。奥さんは少年を叱り、その上で事情を聴くと、なんと鍋蓋を売っている間に、鍋蓋がいとおしくなり洗っていたと言うではありませんか。奥さんは感動して少年を抱きしめ、一つ買いますといってくれました。
こんな、誠意が通じて初めて鍋蓋が売れました。また知り合いもつれてきて持ってきた鍋蓋が全部売れました。このとき少し商いのことが分かったという話でした。
このビデオは、イエローハットで無料で貸出ししてくれます。また市販でも売っていますので一度ご覧ください。全部で3巻あります。つづきは、また観てからご報告します。
2008年12月13日土曜日
近江商人と伊勢商人- ネットのブログから
兵庫県明石で経営コンサルタント会社を経営されている中谷恭子社長のブログから引用させていただきました。
引用のサイトは、近江商人の特徴を大変コンパクトにかつ現在の経営の指針になるよう配慮してまとめてありました。ここでも小倉先生の本(『近江商人の経営管理』中央経済社)が引用されています。
もともと引用サイトを見つけたのは、トヨタ自動車は近江商人かというネット上での質問から検索してみつけたサイトです。トヨタ自動車と近江商人は中興の祖である石田退三氏が豊田家と遠縁に当る事や彦根東高校卒業であったことに縁があるようです。
近江商人は、名古屋の豊田織機や伊勢松阪の商人とも関係深く色々な面で共通するところがあります。
江戸時代の商人の人事制度については、「雇用の歴史」(牧英正法学博士著、弘文道)を見るとよく理解できますが、この本でも小倉先生の近江商人と伊勢商人(三井家)の江戸時代の雇用人事制度がまとめてあります。
以下ブログから転記します。
●「近江商人」とは
現在の滋賀県、琵琶湖周辺出身の商人で、その特徴は遠隔地行商から始まった、広域志向の商人であったことにあります。近江地方の商人でもその活動領域が近江地方だけに限定されたものは「地商い」といい、いわゆる「近江商人」ではありません。本拠は近江国に置くけれども、その活動領域は全国各地に及んでいる、これが近江商人のビジネススタイルです。
本店を中心に全国へ支店網を展開させるという、現在のビジネススタイルの原型といえるものといえますね。
ひと言:近江商人には、日野商人、八幡商人、湖東商人、五箇荘商人などそれぞれの地域により特産品も違い商いも違います。湖西商人の高島町からでた高島屋は呉服、蚊帳で有名な八幡、日野椀で有名な日野商人、繊維の五箇荘などです。
しかし、共通するとことは、天秤棒を担いで行商する近江商人の姿です。
もともと行商とは人の道を行くという意味で今の訪問販売ではありません。
● 近江商人の経営理念
近江商人とその他の商人を分ける最大の特徴は、その経営理念にあるといえます。
遠隔地交易という独特の商法により、その経営理念も独特のものがあったようです。
そして、この経営理念はそのまま現代にも適用できる優れたものです。
少しご紹介させていただきますと…。
1.「三方よし」
これは、「売手よし、買手よし、世間によし」のことを言い表したものです。
商売を行うからには儲からねば意味がありません、そのためにはお客さんにも喜んでもらわなければなりません。ですから「売手よし、買手よし」は当然のことといえますが、近江商人には、このうえに「世間よし」が加わって「三方よし」となります。
これは300年生き続けてきた理念で、近江商人特有のものとなっています。
自らの地盤を遠く離れた他国で商売を行う、近江商人においては、他国において尊重されるということが、自らの存在を正当づける根拠にもなりますから、「世間によし」という理念が生まれてきたといわれています。
ひと言:三方よしとは昭和になって滋賀大学の小倉教授がつけた呼び方です。天秤棒にこの三方好の発想がわかります。前に着替えなど身の回り品、後ろに商品見本を天秤棒に掛けて真ん中の商人がバランスを取ります。見方を変えて、前はお客、後ろは仕入れ、真ん中でバランスを取るのが商人。それぞれの利益のバランスが取れて初めて、自身が生かされます。
2.「利真於勤」
「利ハ勤ルニ於イテ真ナリ」これは、「三方よし」が近江商人の存在理由であるとするなら、
その任務は物資の流通にあると定めたもので、利益はその任務に懸命に努力したことに対する
おこぼれに過ぎないという理念を言い表したものです。
これは営利至上主義に陥ることを諫めたもので、経営の社会的責任というものを強調したものといえます。
西洋社会においては、キリスト教のプロテスタントの精神から、交換経済は人間に不可欠なものであるから、その機能を促進させる商人は、「神の意志」に即した行為を行うものである、
このように宗教的理念から商人の存在が正当づけられているのに対して、
近江商人においては、特定の宗教というより、天下の需要と供給を調整するのが商人として天職、商人に課せられた社会的責任であるとの考え方で、これを完全に達成するために勤めるのであり、利益が目的で勤めるのではなく、利益は商人が責任を果たしたことについて添えられる潤いというべきものとする、近江商人独特の職業観、職業倫理であったといえます。
江戸の中期以降になると京都の石田梅岩がでます。石田梅岩はまさに商道を説いた西洋のアダムスミスです。彼の出現により商道はいよいよ浪速を中心に開花していきます。
近江商人は、寧ろ倹約と実利を求める方向に行き、倫理は体で覚えたのでしょう。
3.「陰徳善事」
これは人知れずよい行いを行うことであり、自己顕示や見返りを期待せず、人のために尽くしなさいという意味です。人間の能力には限界があり、自分の努力だけではどうしようもないこともあり、そこから先は神仏などの「絶対者」に帰依するよりほかはないという、近江商人の宗教観を表したものといえます。
ひと言:近江の仏壇は有名です。どこも仏壇を大切にするところは栄えるようです。
● 「近江商人」の人事管理手法
これらの経営理念は、近江商人の人事管理手法にも大きな影響を与えています。
近江商人の人事制度に関する特徴としては、雇用制度として近江出身者からの雇用、そして、その人事管理手法としての「在所登り制度」があげられます。
近江商人の奉公人制度は一般の風習と同じく10代の「子飼い」からスタートし、「丁稚」、「手代」、「番頭」と昇進し、支配人や別家となることをゴールとする、いわゆる「丁稚制度」でした。
近江商人は全国各地に支店を設けていましたが、そこで働く店員は本家のある近江地方から、
主に派遣されていました。これは経営を任せるに相応しい人物に育成するためには、その人物に対する詳しい情報が入り、身元の確かな人物を採用する必要があったからといわれています。
そして、その人事管理手法としては「在所登り制度」というものが行われていました。
近江商人は、遠隔地に出店しそこで奉公を行うため、一般の商家のように親元へ帰り休養を許されるという、「薮入り」を毎年行うことはできません。
そこで奉公人に、一定の年数を経たのち帰省をさせる制度をつくり、これを「在所登り」といっていました。
これは、この登りの回数を重ねるにつれ職位や報酬が変わっていくという、いわば昇進制度でもありました。そして、この在所登りは奉公期間の区切りとして勤務評定をする重要な節目となっていました。ですから、このときに解雇される者も少なくなかったそうです。
つまり、近江商人におけるこの「在所登り制度」は、終身雇用を保証し年功を重んじるよりも、能力主義による人材選抜手法として機能していたといえます。近江商人においては、その経営理念から、先祖から受け継いだ資産を守り、それを増殖させることが後継者の役割であるという考え方が強く、そのため徹底した能力主義経営が貫かれていたようです。
これは主人に対しても適用されており、「押込隠居」といって、経営能力のない後継者は強制的に経営から退けられることもあったそうです。
また、商売を通じて得た利益金を、本家上納・内部留保・店員配当という3つに配分するという、「三ツ割制度」というものがあり、この店員配当(出精金)により支配人、奉公人に対しても事業経営へのインセンティブを与え、経営への一体感を高めていました。
支配人をはじめ奉公人にも利益配当がもたらされ、それにより彼らに刺激を与え、より大きな経営成果をあげるようなしくみになっていたのです。このことは近江商人の経営における奉公人の重要性がうかがえ、奉公人の良し悪しがその経営を大きく左右することを、深く理解していたといえるものです。
近江商人における人事管理手法は、このようなことから考えて、徹底した「能力主義」が採用されていたと判断して差し支えないかと思われます。では、近江商人においての人材の評価はどのようなものだったのでしょうか。
伊勢商人は、丁稚を「子供衆」(こどもし)といっていました。近江商人とほとんど同じ人事管理、資本管理をしていたようです。
● 近江商人の人材評価基準
一般的に商人に大切なこととしては、「才覚」と「算用」だといわれています。
市場の状況の変化に即応して、知恵を絞り、他の者に先んじて効果的な手を打ち、また、常に損益状況を考え、不慮の損失を蒙らないように計算する。商人とはこうあるべき、
普通はこのように考えられています。
しかし、近江商人が遺した家訓などからはこのような考え方は出てこないそうなのです。
それどころか、反対にこのような考え方を抑えるような主旨のものが多いそうです。
近江商人の販売の極意に「売って悔やむ」というものがあります。
これは、顧客の望むときに、売り惜しみせずに販売し、売った後で、これほどの人気商品を
こんなに安い値段で売るのはちょっと惜しいと後悔するような取引をせよ、というものです。
これは、売り手が損をしたと感じるということは、買い手は儲かるということであり、それが商売を長続きさせる秘訣であることを説いたものです。近江商人の商売の考え方は、短期的利益を追うのではなく、長期的視点で物事を考える。ここに独特の特徴があるように思われます。
この長期的視点で物事を考えることは、支出や消費に対する態度にも表れており、これは「始末と吝き(しわき)」の違いとして、よく言い表されています。
「吝き」とは、必要な支出や消費までも厭うという、いわゆるケチのことで、近江商家ではこれは良くないこととして伝えられているそうです。
これに対し「始末」とは、単なる倹約のことではなく、たとえ高くつくものであっても、
本当にいいものであれば長く使え、その効用も高くなり、結局は得をするというものです。
近江商家ではこの「始末」ということをとても重視していたようです。
つまり、この「始末」とは長期的経済合理性を説いたもので、ロングタームで物事を考える近江商人の考え方をよく表したものといえます。
そして、このことは近江商人の人事管理ついても、この長期的視点で物事を考えることが、よく表れているように思われます。
これは「陰徳善事」の理念も大きく影響していると思うのですが、近江商人においては人材を評価するときに、その人の商売の能力だけを評価することはありません。
ある特徴的な項目がその評価基準に加えられているのです。
この評価項目は、近江商人の流れをくむ現在のトヨタ自動車においても、重要なコンピテンシー項目とされているそうです。
そして、これは他の企業ではあまり見られない特徴となっているようなのです。近江商人に特徴的な人材の評価項目、とは一体何なのでしょうか
近江商人に特徴的な人材の評価項目、
それは…、人望や性格といった、「人間性」を重要な評価項目としていたのです。
近江商人では、この人間性に対する評価は、丁稚奉公を何年か続け、20歳くらいになった時点で行われていたそうで、このとき、冷酷な者を避け、性格が誠実で忍耐強い者を引き立てるように定められていたそうです。
人間性の方をより重視していたのです。
これは、長期的視点で考えた場合、その人の才覚よりもその人間性を評価した方が、結局は、高い業績をもたらすからであったと考えられます。近江商家では先にご紹介した経営理念に即して、人材の評価についても行われていたといえます。
また、現在のトヨタ自動車においても、「人望」という項目が人事評価項目に加えられています。これはトヨタがその人材の人間性を重視していることの現われといえます。
(この項目を評価基準に加えている企業はとても少ないそうです)
近江商人の経営においては、人材、特にその「人間性」をとても重要視していたのです。
伊勢商人はこれに才覚と言う言葉を残しています。三井家などは才覚で栄えた事で有名です。いずれにしろこの頃、暖簾と言うものができ、暖簾わけができました。長年働いた支配人には、のれんわけをします。しかし一代限りの暖簾です。資本と家と暖簾と屋号を渡します。
位によっては、暖簾だけをもらい一から商売もあります。人事評価と成果はいずれの時代も厳しいものです。
● さいごに
以上、近江商人について簡単に見てきたわけですが、「三方よし」をはじめとする、特徴的な経営理念、そして、それに厳格に対応して行われる人事管理・評価制度。
300年以上も続いてきた老舗企業である「近江商人」の商売の考え方には、本質的な「何か」が含まれているように思います。
そして、このような考え方は影が薄いものになってきているような気がしてなりません。
日本においても、能力主義的人事評価が主流になってきつつありますが、どうもそれが、いまの業績だけをみる、短期的視点のものであるように感じられます。
企業経営の目的は利益だけではありません、その企業を存続させることもとても大切なことです。そうであるならば、やはり長期的な視点をもって経営というものを考えていかねばならないでしょう。そう考えたとき、300年以上もの歴史を持つ「近江商人」の考え方を学ぶことは、決して、無駄なことではないように思うのです。
ひと言:最近、近江商人の家業も立ち行かなくなるケースも出てきています。小杉産業もその一つです。しかし、また再興する可能性もあり、こうした道を経て何代も続く大店ができます。
-参考文献-
小倉榮一郎 『近江商人の金言名句』 中央経済社 1990年
小倉榮一郎 『近江商人の経営管理』 中央経済社 1991年
末永國紀 『近江商人 現在を生き抜くビジネスの指針』 中公新書 2000年
上村雅洋 『近江商人の経営史』 清文堂 2000年
片山 修 『トヨタはいかにして「最強の社員」をつくったか』 祥伝社 2002年
引用のサイトは、近江商人の特徴を大変コンパクトにかつ現在の経営の指針になるよう配慮してまとめてありました。ここでも小倉先生の本(『近江商人の経営管理』中央経済社)が引用されています。
もともと引用サイトを見つけたのは、トヨタ自動車は近江商人かというネット上での質問から検索してみつけたサイトです。トヨタ自動車と近江商人は中興の祖である石田退三氏が豊田家と遠縁に当る事や彦根東高校卒業であったことに縁があるようです。
近江商人は、名古屋の豊田織機や伊勢松阪の商人とも関係深く色々な面で共通するところがあります。
江戸時代の商人の人事制度については、「雇用の歴史」(牧英正法学博士著、弘文道)を見るとよく理解できますが、この本でも小倉先生の近江商人と伊勢商人(三井家)の江戸時代の雇用人事制度がまとめてあります。
以下ブログから転記します。
●「近江商人」とは
現在の滋賀県、琵琶湖周辺出身の商人で、その特徴は遠隔地行商から始まった、広域志向の商人であったことにあります。近江地方の商人でもその活動領域が近江地方だけに限定されたものは「地商い」といい、いわゆる「近江商人」ではありません。本拠は近江国に置くけれども、その活動領域は全国各地に及んでいる、これが近江商人のビジネススタイルです。
本店を中心に全国へ支店網を展開させるという、現在のビジネススタイルの原型といえるものといえますね。
ひと言:近江商人には、日野商人、八幡商人、湖東商人、五箇荘商人などそれぞれの地域により特産品も違い商いも違います。湖西商人の高島町からでた高島屋は呉服、蚊帳で有名な八幡、日野椀で有名な日野商人、繊維の五箇荘などです。
しかし、共通するとことは、天秤棒を担いで行商する近江商人の姿です。
もともと行商とは人の道を行くという意味で今の訪問販売ではありません。
● 近江商人の経営理念
近江商人とその他の商人を分ける最大の特徴は、その経営理念にあるといえます。
遠隔地交易という独特の商法により、その経営理念も独特のものがあったようです。
そして、この経営理念はそのまま現代にも適用できる優れたものです。
少しご紹介させていただきますと…。
1.「三方よし」
これは、「売手よし、買手よし、世間によし」のことを言い表したものです。
商売を行うからには儲からねば意味がありません、そのためにはお客さんにも喜んでもらわなければなりません。ですから「売手よし、買手よし」は当然のことといえますが、近江商人には、このうえに「世間よし」が加わって「三方よし」となります。
これは300年生き続けてきた理念で、近江商人特有のものとなっています。
自らの地盤を遠く離れた他国で商売を行う、近江商人においては、他国において尊重されるということが、自らの存在を正当づける根拠にもなりますから、「世間によし」という理念が生まれてきたといわれています。
ひと言:三方よしとは昭和になって滋賀大学の小倉教授がつけた呼び方です。天秤棒にこの三方好の発想がわかります。前に着替えなど身の回り品、後ろに商品見本を天秤棒に掛けて真ん中の商人がバランスを取ります。見方を変えて、前はお客、後ろは仕入れ、真ん中でバランスを取るのが商人。それぞれの利益のバランスが取れて初めて、自身が生かされます。
2.「利真於勤」
「利ハ勤ルニ於イテ真ナリ」これは、「三方よし」が近江商人の存在理由であるとするなら、
その任務は物資の流通にあると定めたもので、利益はその任務に懸命に努力したことに対する
おこぼれに過ぎないという理念を言い表したものです。
これは営利至上主義に陥ることを諫めたもので、経営の社会的責任というものを強調したものといえます。
西洋社会においては、キリスト教のプロテスタントの精神から、交換経済は人間に不可欠なものであるから、その機能を促進させる商人は、「神の意志」に即した行為を行うものである、
このように宗教的理念から商人の存在が正当づけられているのに対して、
近江商人においては、特定の宗教というより、天下の需要と供給を調整するのが商人として天職、商人に課せられた社会的責任であるとの考え方で、これを完全に達成するために勤めるのであり、利益が目的で勤めるのではなく、利益は商人が責任を果たしたことについて添えられる潤いというべきものとする、近江商人独特の職業観、職業倫理であったといえます。
江戸の中期以降になると京都の石田梅岩がでます。石田梅岩はまさに商道を説いた西洋のアダムスミスです。彼の出現により商道はいよいよ浪速を中心に開花していきます。
近江商人は、寧ろ倹約と実利を求める方向に行き、倫理は体で覚えたのでしょう。
3.「陰徳善事」
これは人知れずよい行いを行うことであり、自己顕示や見返りを期待せず、人のために尽くしなさいという意味です。人間の能力には限界があり、自分の努力だけではどうしようもないこともあり、そこから先は神仏などの「絶対者」に帰依するよりほかはないという、近江商人の宗教観を表したものといえます。
ひと言:近江の仏壇は有名です。どこも仏壇を大切にするところは栄えるようです。
● 「近江商人」の人事管理手法
これらの経営理念は、近江商人の人事管理手法にも大きな影響を与えています。
近江商人の人事制度に関する特徴としては、雇用制度として近江出身者からの雇用、そして、その人事管理手法としての「在所登り制度」があげられます。
近江商人の奉公人制度は一般の風習と同じく10代の「子飼い」からスタートし、「丁稚」、「手代」、「番頭」と昇進し、支配人や別家となることをゴールとする、いわゆる「丁稚制度」でした。
近江商人は全国各地に支店を設けていましたが、そこで働く店員は本家のある近江地方から、
主に派遣されていました。これは経営を任せるに相応しい人物に育成するためには、その人物に対する詳しい情報が入り、身元の確かな人物を採用する必要があったからといわれています。
そして、その人事管理手法としては「在所登り制度」というものが行われていました。
近江商人は、遠隔地に出店しそこで奉公を行うため、一般の商家のように親元へ帰り休養を許されるという、「薮入り」を毎年行うことはできません。
そこで奉公人に、一定の年数を経たのち帰省をさせる制度をつくり、これを「在所登り」といっていました。
これは、この登りの回数を重ねるにつれ職位や報酬が変わっていくという、いわば昇進制度でもありました。そして、この在所登りは奉公期間の区切りとして勤務評定をする重要な節目となっていました。ですから、このときに解雇される者も少なくなかったそうです。
つまり、近江商人におけるこの「在所登り制度」は、終身雇用を保証し年功を重んじるよりも、能力主義による人材選抜手法として機能していたといえます。近江商人においては、その経営理念から、先祖から受け継いだ資産を守り、それを増殖させることが後継者の役割であるという考え方が強く、そのため徹底した能力主義経営が貫かれていたようです。
これは主人に対しても適用されており、「押込隠居」といって、経営能力のない後継者は強制的に経営から退けられることもあったそうです。
また、商売を通じて得た利益金を、本家上納・内部留保・店員配当という3つに配分するという、「三ツ割制度」というものがあり、この店員配当(出精金)により支配人、奉公人に対しても事業経営へのインセンティブを与え、経営への一体感を高めていました。
支配人をはじめ奉公人にも利益配当がもたらされ、それにより彼らに刺激を与え、より大きな経営成果をあげるようなしくみになっていたのです。このことは近江商人の経営における奉公人の重要性がうかがえ、奉公人の良し悪しがその経営を大きく左右することを、深く理解していたといえるものです。
近江商人における人事管理手法は、このようなことから考えて、徹底した「能力主義」が採用されていたと判断して差し支えないかと思われます。では、近江商人においての人材の評価はどのようなものだったのでしょうか。
伊勢商人は、丁稚を「子供衆」(こどもし)といっていました。近江商人とほとんど同じ人事管理、資本管理をしていたようです。
● 近江商人の人材評価基準
一般的に商人に大切なこととしては、「才覚」と「算用」だといわれています。
市場の状況の変化に即応して、知恵を絞り、他の者に先んじて効果的な手を打ち、また、常に損益状況を考え、不慮の損失を蒙らないように計算する。商人とはこうあるべき、
普通はこのように考えられています。
しかし、近江商人が遺した家訓などからはこのような考え方は出てこないそうなのです。
それどころか、反対にこのような考え方を抑えるような主旨のものが多いそうです。
近江商人の販売の極意に「売って悔やむ」というものがあります。
これは、顧客の望むときに、売り惜しみせずに販売し、売った後で、これほどの人気商品を
こんなに安い値段で売るのはちょっと惜しいと後悔するような取引をせよ、というものです。
これは、売り手が損をしたと感じるということは、買い手は儲かるということであり、それが商売を長続きさせる秘訣であることを説いたものです。近江商人の商売の考え方は、短期的利益を追うのではなく、長期的視点で物事を考える。ここに独特の特徴があるように思われます。
この長期的視点で物事を考えることは、支出や消費に対する態度にも表れており、これは「始末と吝き(しわき)」の違いとして、よく言い表されています。
「吝き」とは、必要な支出や消費までも厭うという、いわゆるケチのことで、近江商家ではこれは良くないこととして伝えられているそうです。
これに対し「始末」とは、単なる倹約のことではなく、たとえ高くつくものであっても、
本当にいいものであれば長く使え、その効用も高くなり、結局は得をするというものです。
近江商家ではこの「始末」ということをとても重視していたようです。
つまり、この「始末」とは長期的経済合理性を説いたもので、ロングタームで物事を考える近江商人の考え方をよく表したものといえます。
そして、このことは近江商人の人事管理ついても、この長期的視点で物事を考えることが、よく表れているように思われます。
これは「陰徳善事」の理念も大きく影響していると思うのですが、近江商人においては人材を評価するときに、その人の商売の能力だけを評価することはありません。
ある特徴的な項目がその評価基準に加えられているのです。
この評価項目は、近江商人の流れをくむ現在のトヨタ自動車においても、重要なコンピテンシー項目とされているそうです。
そして、これは他の企業ではあまり見られない特徴となっているようなのです。近江商人に特徴的な人材の評価項目、とは一体何なのでしょうか
近江商人に特徴的な人材の評価項目、
それは…、人望や性格といった、「人間性」を重要な評価項目としていたのです。
近江商人では、この人間性に対する評価は、丁稚奉公を何年か続け、20歳くらいになった時点で行われていたそうで、このとき、冷酷な者を避け、性格が誠実で忍耐強い者を引き立てるように定められていたそうです。
人間性の方をより重視していたのです。
これは、長期的視点で考えた場合、その人の才覚よりもその人間性を評価した方が、結局は、高い業績をもたらすからであったと考えられます。近江商家では先にご紹介した経営理念に即して、人材の評価についても行われていたといえます。
また、現在のトヨタ自動車においても、「人望」という項目が人事評価項目に加えられています。これはトヨタがその人材の人間性を重視していることの現われといえます。
(この項目を評価基準に加えている企業はとても少ないそうです)
近江商人の経営においては、人材、特にその「人間性」をとても重要視していたのです。
伊勢商人はこれに才覚と言う言葉を残しています。三井家などは才覚で栄えた事で有名です。いずれにしろこの頃、暖簾と言うものができ、暖簾わけができました。長年働いた支配人には、のれんわけをします。しかし一代限りの暖簾です。資本と家と暖簾と屋号を渡します。
位によっては、暖簾だけをもらい一から商売もあります。人事評価と成果はいずれの時代も厳しいものです。
● さいごに
以上、近江商人について簡単に見てきたわけですが、「三方よし」をはじめとする、特徴的な経営理念、そして、それに厳格に対応して行われる人事管理・評価制度。
300年以上も続いてきた老舗企業である「近江商人」の商売の考え方には、本質的な「何か」が含まれているように思います。
そして、このような考え方は影が薄いものになってきているような気がしてなりません。
日本においても、能力主義的人事評価が主流になってきつつありますが、どうもそれが、いまの業績だけをみる、短期的視点のものであるように感じられます。
企業経営の目的は利益だけではありません、その企業を存続させることもとても大切なことです。そうであるならば、やはり長期的な視点をもって経営というものを考えていかねばならないでしょう。そう考えたとき、300年以上もの歴史を持つ「近江商人」の考え方を学ぶことは、決して、無駄なことではないように思うのです。
ひと言:最近、近江商人の家業も立ち行かなくなるケースも出てきています。小杉産業もその一つです。しかし、また再興する可能性もあり、こうした道を経て何代も続く大店ができます。
-参考文献-
小倉榮一郎 『近江商人の金言名句』 中央経済社 1990年
小倉榮一郎 『近江商人の経営管理』 中央経済社 1991年
末永國紀 『近江商人 現在を生き抜くビジネスの指針』 中公新書 2000年
上村雅洋 『近江商人の経営史』 清文堂 2000年
片山 修 『トヨタはいかにして「最強の社員」をつくったか』 祥伝社 2002年
2008年12月8日月曜日
古本と帳簿
高価な書籍はどうしても図書館で借りることになります。
伊勢商人、近江商人の本は最近発刊されていないようで、検索するといずれも古書の部類に入ってしまい1万円を超えるものもあります。
週末、近くの図書館に行ってきました。
帳簿(帳合の法)の歴史について調べてきました。
神戸大学会計学研究室が執筆している会計学辞典によると、現存する日本最古の帳簿については、富山家(とみやまけ)の足利帳が最古のものだと解説があります。
伊丹の鴻池、松阪の三井(江戸店もち京商人)も帳合の法を持っていましたが、中でも滋賀大学小倉教授による近江「中井家の帳合の法」は詳しい分析がなされているため、「中井家の帳合の法」が一般には有名です。人によってはこの帳簿が複式簿記で最古だと言っています。
富山家の帳簿「足利帳」については、日本大学の教授による労作「日本の帳合の法」の中に原文が掲載してあります。
富山家の「足利帳」の原本は、図書館所蔵の写真で見ることができましたが国立資料館では閲覧できないそうです。
伊勢商人、近江商人の本は最近発刊されていないようで、検索するといずれも古書の部類に入ってしまい1万円を超えるものもあります。
週末、近くの図書館に行ってきました。
帳簿(帳合の法)の歴史について調べてきました。
神戸大学会計学研究室が執筆している会計学辞典によると、現存する日本最古の帳簿については、富山家(とみやまけ)の足利帳が最古のものだと解説があります。
伊丹の鴻池、松阪の三井(江戸店もち京商人)も帳合の法を持っていましたが、中でも滋賀大学小倉教授による近江「中井家の帳合の法」は詳しい分析がなされているため、「中井家の帳合の法」が一般には有名です。人によってはこの帳簿が複式簿記で最古だと言っています。
富山家の帳簿「足利帳」については、日本大学の教授による労作「日本の帳合の法」の中に原文が掲載してあります。
富山家の「足利帳」の原本は、図書館所蔵の写真で見ることができましたが国立資料館では閲覧できないそうです。
2008年11月10日月曜日
近江商人について - 読書日記ブログから
近江商人の帳簿は有名な中井家の帳合の法がありますが、伊勢商人にも富山家の帳簿が最古といわれています。
国立史料館にあるとの事ですが、閲覧可能かどうか現在近くの図書館でも調べてもらっています。今回は、水谷さんのブログから「近江商人の帳簿」をうまくまとめていらっしゃったので引用させていただきました。
近江商人と伊勢商人はその発生、隣国でありともに天領であったなど共通するところが多くあります。中でも蒲生氏里が転府していらい日野商人が多く勢州へ移り住み近江商法が普及することになりました。
そうしたことから、江州と勢州両方に帳簿が残っているのは、合点がいくことです。
以下引用
http://mizutani.cocolog-nifty.com/book/2005/08/post_c7db.html
日野商人である中井家に残された膨大な大福帳が滋賀大学経済学部に収まりました。筆者が大福帳を調べてみるとすごい複式簿記の仕組みになっていることが判明します。
日本への複式簿記の導入は福沢諭吉が「帳合の法」の訳本を出してからと言われていましたが、200年も前に開発されていました。中井家の場合、本支店会計が導入された管理会計にもなっていました。
研究成果がまとめられ「江州中井家帳合の法」として出版されますが中井家だけでなく鴻池、小野組など他の近江商人でも同様の会計システムが出ていたことが明らかになります。
今でいう貸借対照表、損益計算書を揃え、決算報告まで揃っています。堂島の米相場では世界最初の先物取引所ができていたり、こんあ会計システムが出来上がっていたり日本って、とんでもなく進んでいたんですね。
■利足(利息)
中井家では資本金の10%が利足で、これが目標利益になりました。また、支配人にはここまで稼ぎなさいというプレッシャともなる数字です。10%を超えると「徳用」となり、徳用の10%は支配人に分配されます。自分が独立にもなる数字です。今で言う業績報償ですね。
反対に10%に達しない不足分は「損耗」となり、処理の仕方はいろいろとありましたが、中には今日で言う繰越欠損金のようなものもありました。
■帳合の法
売掛帳や過不足口など色々な帳面がありますが、近江商人は一つの取引を2つの帳面に記帳していました。また記帳を突き合わせることで、片方への記入忘れや誤記入を防いでいました。
毎日、仕事が終わると夕食前に全部の帳面をもってきて、一つの記帳に対して、相手となる帳簿にもきっちり記帳されているか確かめます。あっていれば検証印を押し、これで整合性をはかっていました。西洋から伝わった簿記は貸方、借方で処理をしますが原理はまったく同じです。
以上
小生から追加させていただくと、近江商人も伊勢商人も日本で初めて帳簿に資本の概念を導入した商人のようです。
資本とは利益を蓄積するいわゆる貸借対照表上の自己資本です。
江戸時代のほとんどの商人は、キャッシュフローの概念、あるいは簡単に言えば出納帳の概念しかなく、損益計算上の利益は理解できても利益が貸借対照表上のこる事が理解できなかったようです。
国立史料館にあるとの事ですが、閲覧可能かどうか現在近くの図書館でも調べてもらっています。今回は、水谷さんのブログから「近江商人の帳簿」をうまくまとめていらっしゃったので引用させていただきました。
近江商人と伊勢商人はその発生、隣国でありともに天領であったなど共通するところが多くあります。中でも蒲生氏里が転府していらい日野商人が多く勢州へ移り住み近江商法が普及することになりました。
そうしたことから、江州と勢州両方に帳簿が残っているのは、合点がいくことです。
以下引用
http://mizutani.cocolog-nifty.com/book/2005/08/post_c7db.html
日野商人である中井家に残された膨大な大福帳が滋賀大学経済学部に収まりました。筆者が大福帳を調べてみるとすごい複式簿記の仕組みになっていることが判明します。
日本への複式簿記の導入は福沢諭吉が「帳合の法」の訳本を出してからと言われていましたが、200年も前に開発されていました。中井家の場合、本支店会計が導入された管理会計にもなっていました。
研究成果がまとめられ「江州中井家帳合の法」として出版されますが中井家だけでなく鴻池、小野組など他の近江商人でも同様の会計システムが出ていたことが明らかになります。
今でいう貸借対照表、損益計算書を揃え、決算報告まで揃っています。堂島の米相場では世界最初の先物取引所ができていたり、こんあ会計システムが出来上がっていたり日本って、とんでもなく進んでいたんですね。
■利足(利息)
中井家では資本金の10%が利足で、これが目標利益になりました。また、支配人にはここまで稼ぎなさいというプレッシャともなる数字です。10%を超えると「徳用」となり、徳用の10%は支配人に分配されます。自分が独立にもなる数字です。今で言う業績報償ですね。
反対に10%に達しない不足分は「損耗」となり、処理の仕方はいろいろとありましたが、中には今日で言う繰越欠損金のようなものもありました。
■帳合の法
売掛帳や過不足口など色々な帳面がありますが、近江商人は一つの取引を2つの帳面に記帳していました。また記帳を突き合わせることで、片方への記入忘れや誤記入を防いでいました。
毎日、仕事が終わると夕食前に全部の帳面をもってきて、一つの記帳に対して、相手となる帳簿にもきっちり記帳されているか確かめます。あっていれば検証印を押し、これで整合性をはかっていました。西洋から伝わった簿記は貸方、借方で処理をしますが原理はまったく同じです。
以上
小生から追加させていただくと、近江商人も伊勢商人も日本で初めて帳簿に資本の概念を導入した商人のようです。
資本とは利益を蓄積するいわゆる貸借対照表上の自己資本です。
江戸時代のほとんどの商人は、キャッシュフローの概念、あるいは簡単に言えば出納帳の概念しかなく、損益計算上の利益は理解できても利益が貸借対照表上のこる事が理解できなかったようです。
2008年10月26日日曜日
趣味の伊勢名物
三重ではお茶は伊勢茶として有名です。
ペットボトルに入ったお茶では川原製茶の伊勢茶ブランドが濃い味でおいしいお茶でした。
丹生は、勢和の隣村でもありまわりに何もありません。
川原製茶はちょうど丹生太子の門前を少し入ったところにあります。
販売者:株式会社川原製茶
住所 三重県多気郡多気町丹生1786
0598-49-3036
購入場所:松阪観光会館(松阪駅前)
この製品は、三重県製麺共同組合の開発商品で統一ブランド商品です。
伊勢うどんとは、湯でたうどん玉につゆをそのままかけて食べるうどんです。
御汁のないうどんとしては讃岐のかけうどんのつゆなしのような食べ方をします。
伊勢うどん パック2玉
販売者:有限会社 赤塚製麺
津市高野尾町4198
059-230-0015
購入場所:東京有楽町交通会館内 むらからまちから館
むらからまちから館の写真です。ここには全国商工連合会が運営しているため、全国の物産が並んでいます。伊勢もんは、ひじき、清酒、伊勢うどんがありました。少ない!!
03-5208-1521
勢和屋
伊勢商人と初鰹
江戸時代、初鰹は江戸町民にとり特別な意味を持つものでした。
初鰹は女房も質に入れても食らうものという川柳も出たほど、
初鰹を好んで食したそうです。
しかし、江戸に店を構える伊勢商家は、支配人から手代にいたるまで贅沢はご法度でしたから、初鰹が出ようとも一向に見向きもしません。
この説には、嶋田氏の著書「伊勢商人」で、もともと伊勢の人は紀州灘で取れるいきのいい鰹を食していたためわざわざ、小田原や房総からくる鰹には目もくれなかったと紹介されていますが、贅沢を禁じた当時の伊勢商人には鰹にお金をかけるというような事はしなかったのでしょう。
今でも日本橋には「鰹節」を扱う老舗があります。
1699年元禄12年創業のにんべん株式会社は、300年たった今でも鰹節を商っています。
嶋田氏の「伊勢商人」で多くの川柳が紹介されていますが、ここでは紹介できませんが、川柳にも出るほど、伊勢商人と鰹は縁の無いものだったそうです。
しかし、にんべんの鰹はいまだに健在です。機会があれば聞いてみたいものです。
以下HPから抜粋。
にんべんは、お陰様で今年(2008年)創業309年を迎えることができました。元禄12年(1699年)より鰹節一筋に、日本の味を伝え伝えることを使命と考え、安心・安全・健康をモットーに、味本位、品質第一に商品作りをして参りました。今後とも当社製品をご愛顧いただきますようお願い申し上げます。
http://www.ninben.co.jp/
伊勢商人は、相場ものには手を出さず木綿、乾物など国元から調達できる品物を江戸で商っていました。マーケットに流されず必要なものを市場に供給する力と才覚は近江の天秤棒商いと通じるところがあるようです。
2008年10月25日土曜日
三越創業際 335年
三越が今年で創業335年になります。
伊勢商人の代表として今なお広く知られています。
他の日本橋界隈の老舗には、ニンベンの鰹節などありますが、規模知名度GDP貢献度などなど圧倒的に三越と三井グループは日本を代表する企業となっています。
25 Oct 08
----------
伊勢丹は伊勢屋丹次郎氏が創業したがこれも伊勢屋。今回伊勢丹と合併するが、三越としての暖簾は残るが経営が変わると言うのはなんとも寂しい思いです。
三越335年記念のお菓子の缶を販売していたがひとつ買って記念にとっています。
この絵は広重の浮世絵ですがが当時の三越の繁盛振りを表しています。
当時三井高利は、江戸の富士山の見えるところで繁盛する三越を夢見ていたそうです。
それが、日本橋駿河町だったのでこの絵もそうです。当時の成功の証としてこの浮世絵を見ると改めて才覚と伊勢商人のすごさを感じるところがあります。
伊勢商人の代表として今なお広く知られています。
他の日本橋界隈の老舗には、ニンベンの鰹節などありますが、規模知名度GDP貢献度などなど圧倒的に三越と三井グループは日本を代表する企業となっています。
25 Oct 08
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伊勢丹は伊勢屋丹次郎氏が創業したがこれも伊勢屋。今回伊勢丹と合併するが、三越としての暖簾は残るが経営が変わると言うのはなんとも寂しい思いです。
三越335年記念のお菓子の缶を販売していたがひとつ買って記念にとっています。
この絵は広重の浮世絵ですがが当時の三越の繁盛振りを表しています。
当時三井高利は、江戸の富士山の見えるところで繁盛する三越を夢見ていたそうです。
それが、日本橋駿河町だったのでこの絵もそうです。当時の成功の証としてこの浮世絵を見ると改めて才覚と伊勢商人のすごさを感じるところがあります。
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