地域資料コーナー
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三井高利とその商法
* はじめに
* 1 三井高利と三井家
* 2 呉服店「越後屋」の商法
* 3 武藤文庫の三井家関係資料
* 4 当館所蔵参考文献(2004年6月現在)
書名 編著者 刊年 出版者
1 三井事業史 本編 第1巻 三井文庫編 1973 三井文庫
2 三井事業史 資料編 1 三井文庫編 1980 三井文庫
3 三井高利 中田易直 1975 吉川弘文館
4 三井元祖高利修業記 来多武六 1942 国文社
5 人づくり風土記 24 加藤秀俊編 1992 農山漁村文化協会
6 松阪学ことはじめ「宣長さん200年」 実行委員会編 2002 おうふう
7 伊勢商人 嶋田謙次 1988 伊勢商人研究会
8 伊勢商人の世界 後藤隆之 1990 三重県良書出版会
9 江戸商業と伊勢店 北島正元 1975 吉川弘文館
10 雇用の歴史 牧英正 1977 弘文堂
11 越後屋より三越 豊泉益三 1936 川瀬五節堂
12 三越写真帖 三正会幹事編 1941 (三越)
13 三越のあゆみ 「三越のあゆみ」編集委員会編 1954 三越本部総務部
14 松阪市史 第12巻 松阪市史編さん委員会編 1983 蒼人社
当館所蔵参考文献 (2004年6月現在)
書名 編著者 刊年 出版者
15 三重の文化 27 三重郷土会編 1961 三重郷土会
16 越後屋覚書 豊泉益三 1955 三邑社
17 越後屋覚帳 三井高陽 1940 同文館
18 松坂商人のすべて
1 江戸進出期の様相 大喜多甫文 2005 伊勢の国・松坂十楽
2008年9月26日金曜日
伊勢商人の活躍-三井家
近江商人と伊勢商人は、経営スタイル、江戸店持ち、従業員は郷土出身者、複式簿記を扱う、相場者は扱わない、政治と関与しない、など共通する経営面が多くあります。
そうした中でも三井は、両替商として武家との関係も深く政治と関与する面もあったと思われます。戦後、三井家から三越と三井物産、三井銀行に分離した際も、政府の圧力があり両替商から銀行へ、繊維以外の商いは物産へ、繊維は三越へと分離していきました。
長谷川家、小津家などの商家は両替商としても発展していましたが、江戸から明治にかけての激動期に政治の波を読みきれなかったともいえるのではなかったかと思われます。
以下は、ネットからの転記ですが、三井の商法を簡潔にまとめていらっしゃいます。
ご参照ください。
伊勢商人の活躍と三井高利の商法
今日は、江戸時代に活躍した「伊勢商人」についてお話しします。江戸の町でよく言われた言葉に、「江戸に多きもの 伊勢屋、稲荷に犬の糞」とか「伊勢乞食に近江泥棒」などというものがありました。これは、江戸の商人達が江戸で商売を繁盛させていた伊勢商人や近江商人のことを、ねたみ半分に言ったものらしいのですが、当時の江戸の町には「伊勢屋」を始め、「越後屋」「丹波屋」など、伊勢商人の店が軒を連ねていたようです。これらの店は「江戸店」といって、東京支店とでもいうようなもので、「江戸店」持ちということが松阪商人の特色でした。
松阪の城主・蒲生氏郷は近江日野の出身で、近江商人を育てた人でもあり、この氏郷の商業保護政策や、広い木綿生産地があったこと、伊勢参宮の人達によって貨幣経済が発達し、情報も入り易かったことなどから、多くの商人がこの松阪から出ました。有名な人には、越後屋呉服店・三井両替店の基を築いた三井高利、丹波屋(長谷川)次郎兵衛、小津屋清左衛門などがいます。それから国学者本居宣長も、実はこういった伊勢商人の家の出身でした。彼らはそれぞれ、画期的なアイデアで商売を成功させましたが、ここでは三井高利の商いの様子を少しみてみましょう。
三井高利は、松阪で木綿を商売していましたが、ついに決心して、江戸に「越後屋呉服店」を開きます。それまで呉服等を売る方法としては、「屋敷売」といって大名などの得意先を回って注文をとり、品物を届けて、支払いは‘つけ‘で、正月と盆に行われるのというのが一般的だったのですが、高利はそうした大名相手の商売をせず、町人・大衆向けに呉服を売り出したのです。町人達が行きかう店の前にずらりと反物を並べて広告を出し、現金掛値なしのバーゲンセールを催しました。また、地方の商人に越後屋の品物を行商させ、卸売業を兼ねたり、京都に三井両替店を開いたり、数々の独特な商売方法を考え出し、やがて高利は、江戸で一、二を争う大商人となりました。
以上、伊勢商人の代表として三井高利を紹介しましたが、伊勢商人について、井原西鶴が『日本永代蔵』の中で「人の気を見て商の上手は此国の人也」と言っているように、伊勢商人の商売上手は当時の人々を驚かせたようです。
(平成元年1月 伊東由里子)
多気町五桂池の航空写真
三井呉服点を描いた広重の浮世絵(樋田清砂氏蔵)
参考文献
* 中田易直『三井高利』吉川弘文館 昭和34年
* 北島正元『江戸商業と伊勢店』吉川弘文館 昭和37年
* 作道洋太郎ほか『江戸期商人の革新的行動』有斐閣 昭和53年
そうした中でも三井は、両替商として武家との関係も深く政治と関与する面もあったと思われます。戦後、三井家から三越と三井物産、三井銀行に分離した際も、政府の圧力があり両替商から銀行へ、繊維以外の商いは物産へ、繊維は三越へと分離していきました。
長谷川家、小津家などの商家は両替商としても発展していましたが、江戸から明治にかけての激動期に政治の波を読みきれなかったともいえるのではなかったかと思われます。
以下は、ネットからの転記ですが、三井の商法を簡潔にまとめていらっしゃいます。
ご参照ください。
伊勢商人の活躍と三井高利の商法
今日は、江戸時代に活躍した「伊勢商人」についてお話しします。江戸の町でよく言われた言葉に、「江戸に多きもの 伊勢屋、稲荷に犬の糞」とか「伊勢乞食に近江泥棒」などというものがありました。これは、江戸の商人達が江戸で商売を繁盛させていた伊勢商人や近江商人のことを、ねたみ半分に言ったものらしいのですが、当時の江戸の町には「伊勢屋」を始め、「越後屋」「丹波屋」など、伊勢商人の店が軒を連ねていたようです。これらの店は「江戸店」といって、東京支店とでもいうようなもので、「江戸店」持ちということが松阪商人の特色でした。
松阪の城主・蒲生氏郷は近江日野の出身で、近江商人を育てた人でもあり、この氏郷の商業保護政策や、広い木綿生産地があったこと、伊勢参宮の人達によって貨幣経済が発達し、情報も入り易かったことなどから、多くの商人がこの松阪から出ました。有名な人には、越後屋呉服店・三井両替店の基を築いた三井高利、丹波屋(長谷川)次郎兵衛、小津屋清左衛門などがいます。それから国学者本居宣長も、実はこういった伊勢商人の家の出身でした。彼らはそれぞれ、画期的なアイデアで商売を成功させましたが、ここでは三井高利の商いの様子を少しみてみましょう。
三井高利は、松阪で木綿を商売していましたが、ついに決心して、江戸に「越後屋呉服店」を開きます。それまで呉服等を売る方法としては、「屋敷売」といって大名などの得意先を回って注文をとり、品物を届けて、支払いは‘つけ‘で、正月と盆に行われるのというのが一般的だったのですが、高利はそうした大名相手の商売をせず、町人・大衆向けに呉服を売り出したのです。町人達が行きかう店の前にずらりと反物を並べて広告を出し、現金掛値なしのバーゲンセールを催しました。また、地方の商人に越後屋の品物を行商させ、卸売業を兼ねたり、京都に三井両替店を開いたり、数々の独特な商売方法を考え出し、やがて高利は、江戸で一、二を争う大商人となりました。
以上、伊勢商人の代表として三井高利を紹介しましたが、伊勢商人について、井原西鶴が『日本永代蔵』の中で「人の気を見て商の上手は此国の人也」と言っているように、伊勢商人の商売上手は当時の人々を驚かせたようです。
(平成元年1月 伊東由里子)
多気町五桂池の航空写真
三井呉服点を描いた広重の浮世絵(樋田清砂氏蔵)
参考文献
* 中田易直『三井高利』吉川弘文館 昭和34年
* 北島正元『江戸商業と伊勢店』吉川弘文館 昭和37年
* 作道洋太郎ほか『江戸期商人の革新的行動』有斐閣 昭和53年
2008年9月20日土曜日
三越創業335年、三重県尾鷲の鮨屋も江戸へ
三越は今年で創業335年になります。なぜこの時期に、創業祭なのかというと今年から三越伊勢丹ホールディングスになるからです。これからは、店もお買い場という伊勢丹流の経営が始まります。
三越創業祭も今週でいったん終わります。今回の創業際で三重県の「魚健」が銀座三越の特設コーナーに参加し、その帰りに千葉三越でも店を開いていました。
房総人としては、大変ありがたい事です。
魚健は、尾鷲の出身、鮨割烹店として約50年、先代は漁師か魚を扱う店だったと、若旦那がおっしゃったが、100年近く尾鷲で商っていたのでしょう。
名物は紀州名産「さんま姿すし」という事で、一ついただきました。洗練された味と美しい押し寿司です。紀州熊野灘は、さんま、鯖など多く獲れる漁場です。
伊勢出身の三越創業祭で見つけた伊勢商人でした。
屋号 :魚健
三重県北牟婁郡紀北町海山区小山浦藤ノ木28の33
電話 0597-32-0139
代表 民部 昌洋
2008年9月14日日曜日
近江、伊勢の商人に関する参考文献
伊勢、近江商人を調べていくと近江商人に関する書物が圧倒的に多い。
一部紹介します。
「近江商人中井家の研究」
著者 江頭 恒治
出版 雄山閣
中井家は、複式簿記を使っていたが、最も古い複式簿記は伊勢商人の帳簿が保管されている。
「江州中井家帳合の法」
著者 小倉 榮一郎
出版 ミネルバ書房
江戸時代後半期の商業資本の全容解明が可能
「近江商人の経営形態に関する考察」日野豪商中井源左衛門家の場合
31年12月彦根論叢題34号
「徳川時代近江商人の店員組織」
著者 原田 敏丸
近江、伊勢の商人魂
内橋克人概説 日本の商人3
出版 TBSブリタニカ
一部紹介します。
「近江商人中井家の研究」
著者 江頭 恒治
出版 雄山閣
中井家は、複式簿記を使っていたが、最も古い複式簿記は伊勢商人の帳簿が保管されている。
「江州中井家帳合の法」
著者 小倉 榮一郎
出版 ミネルバ書房
江戸時代後半期の商業資本の全容解明が可能
「近江商人の経営形態に関する考察」日野豪商中井源左衛門家の場合
31年12月彦根論叢題34号
「徳川時代近江商人の店員組織」
著者 原田 敏丸
近江、伊勢の商人魂
内橋克人概説 日本の商人3
出版 TBSブリタニカ
日本永大蔵ー「勤勉、倹約、正直、堅実」
井原西鶴の日本永大蔵に三井家の事が書かれています。
今の三井物産、三越の祖として知られる三井高利は、三井八郎兵衛高利という名でした。その祖父は、三井越後之守高安といい、近江の守護佐々木氏に仕える佐々木七将の内の一人として鯰江(なぎずえ)の城主。
その後、織田信長が佐々木氏を滅ぼし高安は伊勢松坂に住まわったとされ、高安の倅 高俊は永井左兵衛(丹波屋)の娘と結婚し町人として質店を商ったのが三井グループの始まりです。
三重多気郡丹生村出身の永井左兵衛の娘が商人の娘として三井家を切り盛りする一方、高俊は武家出身であったため商人として名を成すまでにはならず、嫁であり母がその子供の一人、高利に商道を教え、この高利が現在の三井家の創始者といわれています。
近江商人も伊勢商人も共通する格言があります。
「勤勉、倹約、正直、堅実」です。相場物にはいっさい手をださなかった伊勢商人にも通じる表現です。
勢和屋
今の三井物産、三越の祖として知られる三井高利は、三井八郎兵衛高利という名でした。その祖父は、三井越後之守高安といい、近江の守護佐々木氏に仕える佐々木七将の内の一人として鯰江(なぎずえ)の城主。
その後、織田信長が佐々木氏を滅ぼし高安は伊勢松坂に住まわったとされ、高安の倅 高俊は永井左兵衛(丹波屋)の娘と結婚し町人として質店を商ったのが三井グループの始まりです。
三重多気郡丹生村出身の永井左兵衛の娘が商人の娘として三井家を切り盛りする一方、高俊は武家出身であったため商人として名を成すまでにはならず、嫁であり母がその子供の一人、高利に商道を教え、この高利が現在の三井家の創始者といわれています。
近江商人も伊勢商人も共通する格言があります。
「勤勉、倹約、正直、堅実」です。相場物にはいっさい手をださなかった伊勢商人にも通じる表現です。
勢和屋
暖簾わけと組織
近江商人には「暖簾わけ」があります。今回は、近江商人の「暖簾わけ」から商人の組織を見てみます。
もともと、近江地方では商いをするのではなく、資本家として経営者として出店の管理をするのが本家の主な仕事でした。
通常、近江から旅に出た商人は、江戸に店を構えます。江戸で成功すると、江戸店から更に分家をして東北、北海道地方へ出て行きます。
京都にも出店しますが、京都は繊維物の重要な仕入先として活躍する場合です。大坂は勿論商売としての情報、売れ筋など江戸同様重要な利益源です。
こうした本家から多くの支店出店を管理する体制として、丁稚、手代、支配人という役職があります。支配人を長年勤めたうえで、特に選ばれた元支配人の中でも本家から信頼が置かれている人を後見職になります。
この後見の役職を経て別家として暖簾分け「分家」になります。
この別家の暖簾わけと先ほどの江戸店からの暖簾わけは少し意味が違います。
江戸店からの東北地方への暖簾わけは、新たに本家から資本を追加してもらい分家します。
あくまでも支店的な存在です。
後見からの分家としての暖簾わけは、本家から退職金代わりの金銭が支払われ本家の資本からは分離されます。さらに本家の目付けとしての役割も期待されています。
伊勢商人の場合は、丁稚を、子供衆(こどもし)と呼んでいました。
近江、伊勢商人に共通する事は、丁稚から支配人まで近江、伊勢の出身者で固める事です。昔は、誰か一人流行病でもかかろうものなら、店の全員病気にかかるという事もあったそうです。
それというのも、店の出身者は同郷でもあり、店と住まいを同じくする場合があったからです。
しかし、江戸後期にもなると、優秀な専門家を江戸で別途採用する場合も出てきました。
こうした流れが、特に江戸時代末期から明治時代の始めに大店ではよくありました。
三井家は福沢諭吉と関係も深く、三井家は伊勢出身者でない慶應義塾生を専門職として江戸店に招いていたといわれています。(伊勢商人、三井の場合)
勢和屋
もともと、近江地方では商いをするのではなく、資本家として経営者として出店の管理をするのが本家の主な仕事でした。
通常、近江から旅に出た商人は、江戸に店を構えます。江戸で成功すると、江戸店から更に分家をして東北、北海道地方へ出て行きます。
京都にも出店しますが、京都は繊維物の重要な仕入先として活躍する場合です。大坂は勿論商売としての情報、売れ筋など江戸同様重要な利益源です。
こうした本家から多くの支店出店を管理する体制として、丁稚、手代、支配人という役職があります。支配人を長年勤めたうえで、特に選ばれた元支配人の中でも本家から信頼が置かれている人を後見職になります。
この後見の役職を経て別家として暖簾分け「分家」になります。
この別家の暖簾わけと先ほどの江戸店からの暖簾わけは少し意味が違います。
江戸店からの東北地方への暖簾わけは、新たに本家から資本を追加してもらい分家します。
あくまでも支店的な存在です。
後見からの分家としての暖簾わけは、本家から退職金代わりの金銭が支払われ本家の資本からは分離されます。さらに本家の目付けとしての役割も期待されています。
伊勢商人の場合は、丁稚を、子供衆(こどもし)と呼んでいました。
近江、伊勢商人に共通する事は、丁稚から支配人まで近江、伊勢の出身者で固める事です。昔は、誰か一人流行病でもかかろうものなら、店の全員病気にかかるという事もあったそうです。
それというのも、店の出身者は同郷でもあり、店と住まいを同じくする場合があったからです。
しかし、江戸後期にもなると、優秀な専門家を江戸で別途採用する場合も出てきました。
こうした流れが、特に江戸時代末期から明治時代の始めに大店ではよくありました。
三井家は福沢諭吉と関係も深く、三井家は伊勢出身者でない慶應義塾生を専門職として江戸店に招いていたといわれています。(伊勢商人、三井の場合)
勢和屋
三現主義
近江商人の「天秤棒」には意味があります。
近江商人を研究する小倉榮一郎教授は、天秤棒を使った近江商法を三現主義という表現で説明しています。
三現主義とは、現地、現場、現物の3つの「現」を意味しています。
先ず、利潤源である物流コストの合理化を直接「現地」に足を運び「現場」で仕入売買をします。そのためにも「現物」を吟味する事が大切になります。
これが商人の三現主義です。
商人は、近江地方から子供のうちから父親と一緒に天秤棒をもって旅にでます。
その際、旅籠での宿泊人から色々な地方の話、また旅先での天候、政治など様々な情報を入手します。
天秤棒の両端には、片方に目的地までの簡単な着替えと帳簿をもち、もう一方には、商品見本を持っていくのが一般的です。
ただし、八幡の蚊帳などは持っていけないので、別送便として旅先に先に送っておくのが普通だそうです。日野の塗り物などは見本として持って行ったのでしょう。
こうして、「天秤棒商い」から得られる生情報は、近江に持ち帰り貴重な情報として商いに役立てていきます。
三現主義と天秤棒商いは近江商人の基本となっています。
勢和屋
近江商人を研究する小倉榮一郎教授は、天秤棒を使った近江商法を三現主義という表現で説明しています。
三現主義とは、現地、現場、現物の3つの「現」を意味しています。
先ず、利潤源である物流コストの合理化を直接「現地」に足を運び「現場」で仕入売買をします。そのためにも「現物」を吟味する事が大切になります。
これが商人の三現主義です。
商人は、近江地方から子供のうちから父親と一緒に天秤棒をもって旅にでます。
その際、旅籠での宿泊人から色々な地方の話、また旅先での天候、政治など様々な情報を入手します。
天秤棒の両端には、片方に目的地までの簡単な着替えと帳簿をもち、もう一方には、商品見本を持っていくのが一般的です。
ただし、八幡の蚊帳などは持っていけないので、別送便として旅先に先に送っておくのが普通だそうです。日野の塗り物などは見本として持って行ったのでしょう。
こうして、「天秤棒商い」から得られる生情報は、近江に持ち帰り貴重な情報として商いに役立てていきます。
三現主義と天秤棒商いは近江商人の基本となっています。
勢和屋
2008年9月6日土曜日
伊勢松阪の旅 魚町
松阪駅から歩いて10分程度のところに魚町があります。
江戸当時、魚屋が多かった事から魚町という町名になったそうです。
この魚町には、今でも魚屋、乾物屋など古くからの魚をあきなう商家が残っています。
しかしそのほとんどは住人の老齢化によりほとんどの店が廃業しています。
商いを続けている町の人も「今では面影がなくなりました」と残念がっていました。
写真は、日野町から辻一つ離れた魚町の味噌屋さんです。主人に話を聞くと約600年ほど前から商いをやっているとのことです。
味噌を買おうと思ったのですが、ここは、卸屋さんでしたのでお味噌は買えませんでした。
江戸当時、このお店には丹生村のある現在の勢和地域や松阪近郊の村落から番頭さんや子供衆(こどもし)が商いの修行にきていたそうです。
明治頃には松阪で有名な野呂原丈さんの家系の方も番頭さんとしていらっしたそうです。
また、江戸当時は酒、味噌の両方を商う事ができたそうですが、明治の頃酒屋か味噌屋を選択する必要があったそうです。
当時味噌屋専業を選択したため今もお酒は商っていません。
江戸時代、この醸造の技術をもって、伊勢商人は千葉の銚子で醸造技術を栄えさせたと聞いています。
勢和屋
伊勢松阪の旅 日野町
伊勢松阪の旅 彦根秤
2008年9月1日月曜日
三現主義
近江商人は、天秤棒商いといわれ、天秤棒を担いで諸国を旅して商いをしていました。
天秤棒の両端に小さい行李をさげていましたが、その中には、着替え、帳簿、墨など旅と商売に必要なもの、そして商いの商品見本が入っていました。
旅する近江商人の教えの中で、三現主義があります。
現地に赴き、現物を見て仕入れる。また、旅の途中で天候、市場の現状を確認するという三現主義です。
旅と近江商人の教えは現在の商社やベンチャービジネス家にとっても役立つ商道ではないでしょうか。
マーケティングだのトレーサビリティだの外来語での市場調査や品質確保をうたうより、近江商人の商道を実践すれば的確な商品戦略と信用力が築けると考えます。
勢和屋
天秤棒の両端に小さい行李をさげていましたが、その中には、着替え、帳簿、墨など旅と商売に必要なもの、そして商いの商品見本が入っていました。
旅する近江商人の教えの中で、三現主義があります。
現地に赴き、現物を見て仕入れる。また、旅の途中で天候、市場の現状を確認するという三現主義です。
旅と近江商人の教えは現在の商社やベンチャービジネス家にとっても役立つ商道ではないでしょうか。
マーケティングだのトレーサビリティだの外来語での市場調査や品質確保をうたうより、近江商人の商道を実践すれば的確な商品戦略と信用力が築けると考えます。
勢和屋
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